第12話 追認書
十二軒の水車小屋は、川に沿って半里ほどのあいだに並んでいた。
アデライドは、ミーナの案内で一軒ずつ回った。どの小屋でも、水車は春の雪解け水を受けて重たげに回っている。石臼の擦れる音と、粉の匂い。戸口に積まれた麦の袋。
ミーナは、本当に全部の名前を覚えていた。
一軒目はトビアス爺さん。十二軒のなかでいちばんの古株で、粉挽き仲間のまとめ役をしている。二軒目はハンスとグレーテの夫婦。三軒目は、去年父親を亡くしたばかりの若いフリッツ。
ミーナが名前を呼ぶと、粉挽きたちは帽子を取った。領主夫人に向ける礼ではなかった。どちらかといえば、近所の娘に向ける顔だ。
「奥方様は、毎日来なさるんですよ」
トビアス爺さんが、アデライドに言った。
「冬のあいだ、雪の日も。水車が凍ってないか、って。凍ったら、みんなで割りに行くんです。奥方様も、斧を持って」
ミーナが、顔を赤くして爺さんの袖を引いた。
アデライドは、それを見ないことにした。
◇
粉挽きたちは、商会の手代から受け取った控えを、それぞれ大事に取ってあった。
挽き賃の四割を納めた日付と、額と、手代の署名。字の読めない者も多かったが、控えだけは捨てずに、麦の袋の奥や、竈の上の棚にしまってある。紙は大事なものだと、誰に教わるでもなく知っているのだ。
アデライドは、十二軒分の控えを一枚ずつ書き写した。
終わる頃には、日が傾いている。
最後の一軒を出たとき、川沿いの道の向こうから、立派な四頭立ての馬車がやってくるのが見えた。車体に、ブラント商会の紋。
◇
オスヴァルト・ブラントは、六十を少し過ぎた、丸い体つきの男だった。
領館の広間に通されると、商会主は愛想よく笑い、ユリウスに向かって大げさに一礼した。それから、アデライドにも同じだけ丁寧に頭を下げる。
「三年ぶりでございますな、令嬢。お変わりなく、お美しい」
「ブラント様も、お変わりなく」
「いやいや、わたしは太りました。令嬢に減額されたぶんを、取り返そうと食べすぎましてな」
商会主は、自分の冗談に自分で笑った。広間の誰も笑わなかったが、気にする様子もない。
「本日は、奥方様にお願いがございまして」
ブラントは、上着の内側から一枚の紙を取り出した。
「追認書でございます。水車の契約について、領主様だけでなく、奥方様にもご確認をいただきたい。──なに、形ばかりのものです。領主様のご契約を、奥方様もご承知であると。それだけのことで」
紙は、卓の上に置かれた。
ミーナが、それを見る。アデライドも、それを見る。
短い文面だった。
──ハイデ領主夫人は、領主とブラント商会との水車の契約を承知し、これを、北方三領における他のいかなる約定にも優先するものと認める。
アデライドは、声を出さなかった。
他のいかなる約定にも優先する。
三年前の和解状に何が書かれているにせよ、この一行に署名させてしまえば、その上から塗りつぶすことができる。少なくとも、商会主はそう考えている。つまり、この男は、和解状に何かが書かれていることを知っているのだ。
知っているから、こうして、上から塗る紙を持ってきた。
「奥方様。こちらに、ご署名を」
ブラントが、羽根ペンを差し出した。
ミーナの指が、ペンのほうへ動きかけた。
目上の者に何かを言われて、違いますと言えたことが、一度もない。修道女は、そう言っていた。あの夜会の日、断罪された女の前で、ミーナは頷くことしかできなかった。
アデライドは、口を開かない。
ここで自分が止めれば、それは、ミーナが止めたことにはならない。
ミーナの指が、ペンの手前で止まった。
彼女は、ペンではなく、追認書を手に取った。両手で持ち、顔の前に掲げる。唇が、声を出さずに動いていた。一字ずつ、読んでいるのだ。
広間が、静かになった。
ブラントの愛想のいい笑みが、少しずつ固まっていく。ミーナは、読むのが遅かった。一行を読むのに、普通の者の三倍はかかる。途中で一度、指で行をたどり直した。
最後の一字まで、読んだ。
それから、追認書を卓の上に戻した。
「……わかりません」
「は」
「読みました。でも、何が書いてあるのか、わかりません。他のいかなる約定って、何のことですか。わたし、ほかに何か約束しましたか」
「いや、奥方様、それは形の上の」
「わからないものには」
ミーナの声が、震えた。それでも、止まらなかった。
「わからないものには、名前を書きません」
◇
ブラントの笑みが、消えた。
商会主は、ゆっくりとユリウスのほうに向き直った。
「領主様。奥方様は、慣れておられないようですな。領主様から、一言おっしゃっていただけませんか。いつものように、ここへご署名をと」
いつものように。
その一言で、ユリウスの肩が、わずかに動いた。
アデライドは、彼を見ていた。三百人の前で、書記官が差し出した紙を読み返さずに署名した男。北へ来て、屋根の修繕の金欲しさに、二十年分の水車を読まずに差し出した男。
ユリウスは、卓に歩み寄った。
追認書を、手に取る。
そして、読みはじめた。
ミーナよりは速い。けれど、アデライドが知っているどのユリウスよりも、遅かった。行を目で追い、一度戻り、また進む。羽根ペンを持つときと同じように、紙を持つ指にも力が入りすぎていた。
読み終えるまで、ずいぶん時間がかかった。
「……わからん」
ユリウスは言った。
「おれにも、わからん。他のいかなる約定というのが、何なのか」
「領主様」
「わからんから、書かん」
ユリウスは、追認書をブラントの前に押し戻した。
「妻が書かんと言ったものを、おれが書かせるわけにはいかん。──おまえの言う、いつものように、というのは、もうやめだ」
ブラントは、しばらく黙っていた。
それから、追認書を畳み、上着の内側に戻した。
「承知いたしました。では、契約書のとおりに進めさせていただきましょう。使用料の率は、当商会が定めることになっております。明日からは、挽き賃の五割を」
広間の隅で、ミーナが小さく息を呑んだ。
「ごきげんよう、令嬢。王都へのお帰りの道中、どうぞお気をつけて」
四頭立ての馬車が、夕闇のなかを去っていった。
◇
その夜、アデライドは客間で、十二軒分の控えの写しを並べていた。
どれも、偽りはない。挽き賃の四割を納めた記録。明日からは、五割になる。
和解状に何が書かれているのか。王都から、まだ何の知らせもない。レオンハルトに手紙を出してから、もう十日が過ぎていた。
もし、あの紙に何も書かれていなかったら。
十七の自分が、そこまで考えていなかったら。
燭台の蝋が、一段落ちた。
そのとき、領館の外で、馬のいななきが聞こえた。
一頭。ひどく急いでいる。蹄の音が石畳の上で乱れ、止まった。誰かが玄関の扉を叩き、叫んでいる。
「急使! 王都より、王太子殿下の急使!」
アデライドが階段を降りると、玄関の広間に、泥だらけの若い騎士が膝をついていた。息が上がって、声がかすれている。
「ヴァイセンブルク侯爵令嬢は」
「わたくしです」
「王太子殿下より、直々に。──五日の道を、三日で参りました」
騎士が差し出したのは、厚い封筒だった。
封蝋に、王太子の紋。
アデライドは、封を切った。
中には、二つのものが入っていた。一つは、少年の字で書かれた短い手紙。もう一つは、宮廷の厚手の紙に写された、長い文書だった。
手紙のほうを、先に開く。
──読みました。三度。
──侍従長には止められましたが、ここはわたしの家の文書庫だと言いました。母上にも叱られましたが、叱られながら読みました。
──第九条に、あなたの字がありました。十七歳のあなたの字です。兄上のご署名と、ブラント殿のご署名も、末尾にございました。
──写しには、わたしの印を押してあります。あなたが兄上に押させた印と、同じものです。今度は、読んでから押しました。
──レオンハルト。
アデライドは、手紙を胸に当てた。
それから、文書のほうを開いた。
三年前の、和解状の写し。見覚えのある文面が、宮廷の書記の整った字で並んでいる。一条、二条、三条。減額の幅。商会ごとの返還の期日。王家の面目を立てるための、回りくどい言い回し。
第九条。
アデライドは、それを読んだ。
十七の自分が、何を恐れていたか。何を書いたか。
読みながら、指が震えた。
末尾に、朱の印があった。王太子印。三月前の夜、白鶴の間で乾いた音を立てたのと同じ形の印が、今度は、読んでから押されていた。
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