第13話 第九条
翌朝、トビアス爺さんの水車小屋の前に、人が集まった。
十二軒の粉挽きと、その家族。麦を挽いてもらいに来た村の者たち。噂を聞いて、隣村から来た者もいる。百人は超えている。白鶴の間の三百人には遠く及ばないが、ハイデ領にしては、祭りの日よりも多い人出だった。
水車小屋の前に、粉袋を積んで台が作られた。
台の片側に、オスヴァルト・ブラントと、昨夜の手代。商会主は、朝一番に挽き賃を取り立てに来たところを、トビアス爺さんに呼び止められたのだった。
反対側に、ユリウスとミーナ。
そして、少し離れて、アデライドが立っていた。母の肩掛けを、北の朝の風が揺らしている。
「何の騒ぎですかな」
ブラントは、あいかわらず愛想よく笑っていた。ただ、その笑みの下で、細い目が群衆を数えている。
「挽き賃の件でしたら、契約書のとおりでございます。本日より五割。異を唱えられる筋合いは、どなたにも」
「ブラント様」
アデライドが、一歩前に出た。
「三年前の和解状を、覚えておいでですか」
「もちろん。令嬢に、ずいぶん削られましたからな」
「第九条も」
ブラントの笑みが、ほんのわずかに止まった。
「……さて。九条もございましたかな。年寄りは、細かいことを忘れます」
「では、読み上げます」
アデライドは、レオンハルトの封筒から、写しを取り出した。
◇
「第九条」
声が、水車の音に負けないように、少しだけ張った。
「ブラント商会を含む北方の諸商会は、本状の減額を受くるにあたり、以後十年のあいだ、北方三領のいずれの領主と雖も、水車、製粉、ならびに麦の売買に関し、専らその利を収むる約定を結ぶべからず」
群衆が、ざわめいた。意味のわかる者は少ない。だが、水車という言葉だけは、誰の耳にも届いた。
「これに違うときは、当該の約定は初めより無きものとし、違いたる商会は、本状により減じたる額の全額を、王家に返すべし」
アデライドは、写しから顔を上げた。
「末尾に、王太子ユリウス殿下のご署名と、ブラント商会主オスヴァルト・ブラント様のご署名がございます。──そして、この写しには、王太子レオンハルト殿下の印が押されております」
ブラントの顔から、愛想が消えた。
「……写しは、写しでございましょう」
「王太子印のある写しは、認証された写しでございます。原本と同じ効力を持ちます。宮廷の書式の決まりです。ブラント様も、三年前にご存じだったはずですわ。あのとき、和解状の写しを王太子印つきで受け取られたのは、ブラント様ご自身でしたから」
手代が、主人の袖を引いた。ブラントはそれを振り払った。
「第九条は、王家と商会との約束でございます。ハイデ領主様と当商会の水車の契約とは」
「北方三領の、いずれの領主と雖も」
アデライドは、同じ一行を繰り返した。
「いずれの領主と雖も、と書いてございます。ハイデ領は、北方三領のひとつです。ユリウス様は、ハイデ領の領主でいらっしゃいます。──三年前、わたくしがこの一行を書いたとき、どなたが北方の領主になられるか、わかりませんでした。ですから、いずれの、と書きました」
ブラントの口が、開いたまま止まった。
十七の自分が、何を恐れていたか。
アデライドは、昨夜、それを読んだ。商会が、別の形で、別の領主を使って、麦を握りにくること。領主が誰に代わっても、同じことが起きないように。だから、名前を書かなかった。いずれの領主と雖も、と書いた。
その領主が、三年後に、自分を断罪した男になるとは知らずに。
◇
「奥方様が」
ブラントが、声を張り上げた。
「奥方様が、ご承知だったのですぞ! この冬、契約のご相談に伺ったとき、奥方様は、けっこうです、と仰った。領主夫人がご承知の契約を、いまさら」
群衆の目が、一斉にミーナに向いた。
百人の目である。
ミーナの肩が、跳ねた。あの夜の白鶴の間と同じように。膝の上で握りしめていた両手が、今は外套の前を握りしめている。唇が、震えていた。
アデライドは、口を開かない。
ユリウスも、黙っている。
昨夜の広間で、ミーナが追認書を読んだときと同じだった。ここで誰かが代わりに言えば、それはミーナが言ったことにはならない。ユリウスにも、それがわかっているようだった。拳を握ったまま、妻の横顔だけを見ている。
ミーナが、息を吸った。
喉のところで言葉が止まるのだと、峠の馬車のなかで彼女は言った。昔から、ずっと。
「……違います」
小さな声だった。水車の音に、半分かき消される。
ミーナは、もう一度息を吸った。
「違います」
今度は、百人の端まで届いた。
「わたし、けっこうですなんて、言ってません。わかりません、って言いました。何が書いてあるのか、わかりませんって。そうしたら、ブラント様が、わからなくてけっこうです、って。奥方様がわからなくても、領主様がおわかりですからって。──わたしは、けっこうですなんて、一度も」
声が、途中で裏返った。
それでも、最後まで言った。
「違います。わたしは、言ってません」
トビアス爺さんが、帽子を取った。
それにつられて、粉挽きたちが次々と帽子を取った。誰が合図したわけでもない。雪の日に斧を持って水車の氷を割りに来た娘に向ける、それが彼らの返事だった。
◇
ブラント商会の水車の契約は、第九条により、初めより無きものとなった。
商会は、三年前の減額分の全額を王家に返すことになる。北方の商会がひと冬に稼ぐ額の、何倍にもなる金だった。取り立てた挽き賃は、十二軒の粉挽きに一枚残らず返される。控えの写しとの突き合わせは、アデライドが一枚ずつ引き受けた。
屋根の修繕に借りた金は、借りた金として残った。水車を担保にした約束が消えただけで、借りたことそのものが消えたわけではない。
「返す」
ユリウスは、それだけ言った。
「薪を売る。畑を耕す。何年かかっても、返す。──今度は、証文を読んでから、借り直す」
「そうなさいませ」
◇
王都へ発つ朝、ミーナが馬車のそばまで来た。
粉袋を一つ抱えていた。十二軒の粉挽きが、一軒ずつ一掬いずつ入れた、ハイデ領の麦の粉だという。
「お代じゃありません。お代は、銅貨で払いましたから」
「承知しております」
「これは、ただの、粉です」
クラリッサの菓子と、同じ言い方だった。アデライドは、少しだけ笑いそうになって、こらえる。
ミーナは、粉袋をアデライドの腕に渡した。それから一歩下がり、深く頭を下げる。
「ごめんなさい」
声に、なっている。
北へ発つ日、見送りの列の端で、口の形だけで言おうとした言葉だった。あのとき、アデライドは目を逸らした。泣き崩れさせる理由が、この娘にあるとは思えなかったからだ。
今は、目を逸らさなかった。
「……声に、なりましたね」
「はい」
「許してはおりません」
「わかってます」
「それでも、声にしてくださいましたので」
アデライドは、粉袋を抱え直した。
「村の皆さまに、よろしくお伝えくださいませ。それから、水車が凍ったら、斧は柄の短いものをお使いなさい。長いと、足を打ちます」
ミーナは、泣きながら笑った。
◇
ユリウスは、領館の玄関先に立っていた。
両腕に、丸太を抱えている。薪を割りに行く途中だったのだろう。馬車に乗りこもうとするアデライドを見て、足を止めた。
しばらく、何も言わない。
それから、ぽつりと言った。
「おまえは、そういうのが好きだな」
三年前と、同じ言葉だった。免税の後始末を終えた日に、礼のあとで付け加えた一言。
アデライドは、馬車の踏み台に足をかけたまま、振り返った。
「好きではございません」
三年前は、言わなかったことだった。
「誰かがやらねばならず、殿下がなさらなかっただけです」
ユリウスの顔が、歪んだ。今度は、はっきりと、笑おうとした形に。
「……そうだな」
丸太を抱え直して、彼は背を向けた。
「おれがやらなかった。おまえがやった。──三年前も、今度も」
アデライドは、馬車に乗りこんだ。
扉が閉まる。御者が手綱を鳴らす。車輪が、北の泥道を踏みはじめた。
窓の外で、十二の水車が回っていた。
◇
王都に戻ったのは、初夏の夕暮れだった。
前庭の敷石の継ぎ目で、草は、もう数えられないほどに増えていた。小さな白い花まで咲いている。
母は、寝台の上で、アデライドの肩から灰色の肩掛けを受け取った。粉袋の話をすると、ハンナに焼き菓子を作らせると言った。北の麦の粉で。
「ユリウス殿下には、お会いしたの」
「はい」
「何か、おっしゃった?」
「おまえは、そういうのが好きだな、と」
母は、肩掛けを膝の上で畳みながら、小さく笑った。
「それで、あなたは」
「好きではございません、と申しました」
「三年、遅いわね」
「はい」
「でも、言えたのなら、よかったわ」
その夜、父の書斎に、レオンハルトへの礼状を書きに行った。
書き終えて封をしたところで、ハンナが扉を叩く。
いつもの声ではなかった。棘も、困惑もない。低く、慎重な声だった。
「お嬢様。裏口に、お客様です」
「どなた」
「喪服を、着ていらっしゃいます」
ハンナは、一度言葉を切った。
「手紙を一通、握っておられます。娘さんの、最後の手紙だそうです。──それから、記録院で取ったという写しを、一枚」
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