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婚約破棄は結構ですので、その断罪書にご署名をいただけますか 〜紙一枚で、片をつけます〜  作者: 桜野結


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第14話 示談書

 喪服の女は、ヘレーネ・ロッシュと名乗った。


 王都の西区で織物を商う、ロッシュ商会の主の妻である。歳は四十をいくつか過ぎたところか。黒い衣装は上等な生地だったが、袖口がわずかに擦り切れていた。ひと冬、脱がずに着続けた喪服の擦り切れ方だった。


 父の書斎に通され、燭台の前の椅子を勧められると、ヘレーネは素直に腰を下ろす。膝の上で、両手を重ねている。


 右手に、封筒を一通。左手に、折り畳んだ紙を一枚。


「娘のリーゼが、この冬の終わりに亡くなりました」


 声は、静かだった。何度も口にしてきた言葉なのだろう。静かに言う以外の言い方を、もう忘れてしまったような声だった。


「十七でした。自分で、命を絶ちました」


 アデライドは、黙って頷いた。


 ハンナが湯を置き、下がろうとした。ヘレーネが、それを止める。


「いてくださって、かまいません。──誰かに聞いてもらわないと、最後まで話せない気がするので」


◇


 去年の夏、アイゼナハ伯爵家の園遊会があった。


 ロッシュ商会は、伯爵家の衣装の生地を長く納めている。その縁で、商会の娘も招かれた。リーゼは、仕立て直した水色の夏服を着て、嬉しそうに出かけていったという。


 帰ってきたのは、夜遅くだった。


 伯爵家の馬車ではなく、辻馬車で。水色の夏服の肩が、裂けていた。


「何があったのか、娘は言いませんでした。転んだ、とだけ。翌朝、一人で慈善院の施療所へ行ったようです。帰ってきてからは、部屋から出てこなくなりました」


 三日目に、伯爵家から代言人が来た。


 伯爵家の次男、コンラート・フォン・アイゼナハ。近衛の騎士で、二十四歳。社交界で名の知れた青年だった。剣の腕がよく、顔立ちがよく、公爵家の令嬢との婚約が内々に決まりかけている。


 代言人は、ロッシュ商会の主であるヘレーネの夫に、一枚の紙を差し出した。


「示談書です」


 ヘレーネは、左手の紙を開いて、卓の上に置いた。


「記録院で、写しを取りました。夫が署名した原本は、あちらの家が持っています」


 アデライドは、写しを手に取った。


 ──アイゼナハ伯爵家次男コンラートと、ロッシュ商会の娘リーゼとの交際は、双方の合意に基づくものであったことを、両家は確認する。


 ──アイゼナハ家は、ロッシュ家に対し、見舞いとして金貨五百枚を支払う。


 ──ロッシュ家は、本件について以後一切口外せず、いかなる訴えも起こさない。これに違うときは、受領した金貨の三倍を返還する。


 末尾に、ロッシュ商会の主の署名。アイゼナハ家の代言人の署名。


 そして、欄外に、記録院の公証の印。


「夫は、署名しました」


 ヘレーネの声が、はじめて少し揺れた。


「商会の取引の半分が、伯爵家とその縁続きのお家です。断れば、商会が潰れます。娘の夏服を仕立てた生地も、伯爵家に納めたものの残り布でした。──夫は、署名しました。娘には、相談しませんでした。娘はまだ十七で、署名は父親がするものだと、代言人が言ったので」


◇


 ヘレーネは、右手の封筒を、卓の上に置いた。


「娘の、裁縫箱の底にありました。亡くなったあとで、見つけました」


 アデライドは、封筒を見た。


 宛名はない。封もされていない。若い娘らしい、少し丸い字で、表に一行だけ書かれている。


 ──お母様へ。


「お読みください」


「よろしいのですか」


「あなたに読んでいただくために、持ってきました」


 アデライドは、封筒を開いた。


 便箋は一枚だった。書いては消し、消しては書いた跡がある。インクが滲んで読めない箇所が、いくつかあった。


 全部を読んだ。


 読み終えて、便箋を畳んだ。畳む指が、自分のものではないようだった。


 手紙の中身を、アデライドは誰にも話さないと決めた。この先、どんなことがあっても。ただ、そのなかの三行だけは、読んだ瞬間から頭を離れなくなった。


 ──いやだと言いました。何度も言いました。


 ──合意の上だったと、紙に書いてあるのを見ました。お父様が、その紙に名前を書いたのも見ました。


 ──お父様は、わたしのいやを、金貨に替えたのですね。


◇


「夫は、あの紙を見せてから、寝ついてしまいました」


 ヘレーネは言った。


「娘が亡くなったのは自分のせいだと、そればかり言います。金貨は、一枚も使っていません。蔵の箱に入れたまま、触ろうともしません」


「ロッシュ夫人は、何をお望みですか」


 アデライドは訊いた。


「お金ではございませんね」


「お金は、返したい」


 ヘレーネは、きっぱりと言った。


「一枚残らず、あちらの家に返したい。でも、返しただけでは、あの紙は残ります。合意の上だったと、娘が同意していたと、あの紙には書いてある。記録院の棚に、ずっと。──娘がいやだと言ったことが、どこにも残らないまま」


 ヘレーネは、封筒に手を置いた。


「この手紙を、誰かに見せれば。でも、見せれば、口外したことになります。金貨の三倍を返さなければならない。商会は潰れます。夫は、もう働けません。それに」


 声が、そこで途切れた。


 アデライドは、続きを待った。


「それに、この手紙を、知らない人に読ませたくないんです。娘が、一人で書いたものを。役人や、代言人や、噂好きの奥様方に。──あの子が、どんな思いでこれを書いたのか、知らない人たちに」


 ハンナが、盆の陰で目元を押さえていた。


「それでも、娘がいやだと言ったことを、どこかに残したい。矛盾しているのは、わかっています」


「矛盾はしておりません」


 アデライドは言った。


「手紙は、お嬢様のものです。お嬢様がお母様に宛てて書かれたものです。それを他人に読ませたくないというのは、当たり前のことでございます。──そして、合意の上という字が偽りであるなら、それを直すのも、当たり前のことでございます」


「直せるんですか」


「わかりません」


 アデライドは、正直に言った。


「けれど、一つだけ、お約束いたします。この手紙は、わたくしが使うことはございません。記録院にも、照合の席にも、どこにも出しません。お嬢様の言葉は、お嬢様とお母様のものです」


 ヘレーネは、しばらくアデライドを見ていた。


 それから、喪服の袖の内側から、小さな布の包みを出した。


「銀貨三枚です」


「お預かりいたします」


「……安すぎると、思いませんか」


「窓口の値段ですので」


 ヘレーネは、泣かなかった。ひと冬泣き続けて、もう涙が残っていないのかもしれなかった。


◇


 ヘレーネが帰ったあと、アデライドは長いこと、示談書の写しを見ていた。


 父が、書斎の奥の椅子に座ったまま、何も言わずにいる。ハンナは、湯を替えに行ったきり戻ってこない。


 金で口を買う。


 父が定めた四つの決まりのうち、最後の一つだった。剣も毒も人を雇うことも、アイゼナハ家は使っていない。使ったのは、金貨五百枚と、一枚の紙だけだ。


 それで、十七の娘の「いやだ」を、「合意」に書き換えた。


「お父様」


「なんだ」


「この示談書には、記録院の公証の印がございます」


「そうだな」


「公証は、誰が頼んだのでしょう」


 父は、少し考えてから答えた。


「ロッシュの側ではあるまい。口止めの約束を公証させれば、違えたときに、裁きを経ずに三倍を取り立てられる。得をするのは、アイゼナハの側だ」


「はい」


 アデライドは、写しの欄外の印に指を置いた。


「アイゼナハ家は、ロッシュ家の口を縛るために、この紙を記録院に預けました。公証を受けた文書は、記録院の公証簿に綴られます。公証簿は、公開文書です」


 父が、顔を上げた。


「銅貨二枚で、誰でも写しが取れます。ロッシュ夫人が取れたように。──この紙は、夏の終わりから、ずっと記録院の棚にございました。誰でも読める場所に」


 口外しない、と約束させるための紙。


 それを、約束させた側が、自分の手で、誰でも読める棚に並べたのだ。



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