第15話 索引
記録院の公証簿には、索引がある。
当事者の名と、文書の表題と、公証の日付。それだけが一行ずつ並んだ帳面で、窓口の脇の台に、鎖でつないで置かれている。閲覧は無料。規則集の隣だった。
アデライドは、アイゼナハの名が載った頁を開いた。
去年の夏の終わり。アイゼナハ伯爵家次男コンラート、ロッシュ商会。表題、示談書。
一行きりである。
「この索引を、見に来る方はいらっしゃいますか」
窓口のルーカスに訊くと、彼は首を振った。
「ほとんどいません。土地の売買をする人が、相手の家の借金の公証を探しに来るくらいで。示談書なんて、誰も探しません」
「写しの請求は」
「調べられます。請求の書式は、控えを取ってありますから」
ルーカスは奥へ行き、しばらくして戻ってきた。控えの綴りを一冊抱えている。
「この示談書の写しの請求は、二回です」
「二回」
「一回目は、この春。ロッシュ夫人です」
ルーカスは、綴りの頁を指で押さえた。
「二回目は、ひと月前。──請求者は、ヴァレンシュタイン公爵家の家令です」
アデライドは、控えを覗きこんだ。
公爵家の紋の封蝋。家令の署名。請求の理由の欄には、ただ「身上の調べ」とあった。
ヴァレンシュタイン公爵家。コンラートとの婚約が内々に決まりかけている、アメリー嬢の家である。
「……公爵家は、読んだのですね」
「読んだはずです。写しを取って、帰られましたから」
アデライドは、控えから目を離す。
公爵家は、娘の婚約者の身辺を調べた。そして、この示談書を見つけた。見つけて、読んで、それでも婚約を進めている。
理由は、紙に書いてある。
双方の合意に基づくものであった。
若い騎士が、商家の娘と夏のあいだ交際した。何かの行き違いがあって、見舞いの金を払い、きれいに片をつける。よくある話だ。公爵家の家令は、そう読んだのだろう。
紙の偽りが、コンラートを守っている。
◇
屋敷に戻ると、ヘレーネからの使いが待っていた。
ロッシュ商会の丁稚で、十二、三の少年である。泣き腫らした目で、一通の書状を差し出した。
「奥様が、これを令嬢さまに、って」
書状は、アイゼナハ家の代言人からヘレーネに宛てたものだった。
──ロッシュ夫人が、ヴァイセンブルク侯爵家に出入りしている由、承知した。侯爵家の令嬢は、公文書の訂正の申立で名の知れた方である。夫人が同家へ本件を口外した疑いがある。
──ついては、七日以内に、本件を誰にも口外していない旨の誓約書に署名されたい。署名なきときは、口外したものとみなし、示談書の定めに従い、金貨千五百枚の返還を求める。
「奥様は、ずっと座りこんでいらっしゃいます」
丁稚の少年は、しゃくりあげながら言った。
「旦那様は、寝台から起きられません。お店の人たちも、半分辞めました。噂が」
「噂」
「リーゼお嬢さまが、身持ちの悪い娘だったって。伯爵家の若様に、自分から言い寄ったんだって。市場で、みんな言ってます。誰が言いだしたのか、わからないけど」
アデライドは、書状を握る指に力をこめた。
誰が言いだしたのかは、わかる。
アイゼナハ家は、ロッシュ夫人が侯爵家を訪ねたことを、もう知っている。だから先に噂を撒いた。何かが表に出る前に、表に出たときの聞こえ方を決めてしまうために。
身持ちの悪い娘が、若い騎士に言い寄った。騎士は見舞いの金を払ってやる。娘は、自分で命を絶った。
そう聞けば、誰もが示談書の「合意」を信じる。
◇
その夕方、クラリッサが屋敷を訪ねてきた。
王妃付きの女官に戻ってから、ひと月に一度ほど、菓子を持って顔を出すようになっている。今日の菓子は、中央通りの店の焼き林檎だった。
だが、応接間に通されたクラリッサは、菓子の包みを卓に置いたまま、なかなか口を開かなかった。
「アデライド。ひとつ、訊いてもいい」
「どうぞ」
「ロッシュ商会の娘さんのこと。聞いてる?」
アデライドは、表情を変えなかった。
「なぜ、わたくしに」
「王妃様のお付きのあいだで、噂になってるの。ヴァイセンブルクの令嬢が、ロッシュ商会の夫人と会ってるって。──それで、アメリー様が、気にしておられて」
クラリッサは、焼き林檎の包みを指でいじった。
「アメリー様とは、女官の見習いの頃から仲がいいの。コンラート様との婚約、夏至の宴で公にされるって決まったばかりで。でも、ロッシュの娘さんの噂を聞いてから、ずっと顔色が悪くて。お父上の公爵様は、もう片のついた話だから気にするなって仰るそうなんだけど」
「片のついた話」
「示談書があるんだって。双方が合意してた、って書いてあるんだって」
クラリッサは、アデライドの顔を見た。
「アデライド。何か、知ってるなら」
「クラリッサ」
アデライドは、静かに遮った。
「わたくしは、依頼人から伺ったことを、依頼人の許しなく人に話すことはございません。あなたからお預かりした話を、ロッシュ夫人に話さなかったのと同じように」
クラリッサの顔が、少し赤くなった。
「……ごめんなさい。そうよね」
「ただ、一つだけ申し上げられることがございます」
「なに」
「記録院の公証簿は、公開文書です。どなたでも、銅貨二枚で写しが取れます。──アメリー様のお家は、もう取っておいでのはずです」
クラリッサは、しばらく黙っていた。
それから、焼き林檎の包みを、アデライドのほうへ押しやった。
「……読んだのに、婚約するのね」
「そう書いてございますので」
◇
その夜、アデライドは示談書の写しを燭台の下に広げた。
七日。
ヘレーネが誓約書に署名すれば、口外していないと誓ったことになる。その後で何かが表に出れば、誓約を破ったことにされる。署名しなければ、口外したとみなされる。
どちらを選んでも、金貨千五百枚。
白鶴の間の夜、自分がユリウスに差し出したのと同じ形の罠だった。今度は、差し出される側にいる。
そして、何より厄介なのは、この示談書を世間に読ませても、何ひとつ良くならないということだった。
書いてあるのは、合意の上だった、という一行だ。
この紙が広まれば広まるほど、リーゼは身持ちの悪い娘になる。アイゼナハ家の撒いた噂が、公文書の裏づけを得る。示談書は、コンラートを縛る紙ではない。リーゼを縛る紙だった。
直さなければ、使えない。
合意の上、という一行を。
だが、それを直すには、合意でなかったことを示すものが要る。記録院に出し、照合の席で読み上げられ、写しが誰にでも取れるようになる、何かが。
手紙は、使わない。ヘレーネと約束した。
ほかに、何がある。
アデライドは、ヘレーネの話を頭のなかで最初からたどり直した。園遊会。辻馬車。裂けた夏服の肩。転んだ、とだけ言った娘。
そして。
──翌朝、一人で慈善院の施療所へ行ったようです。
アデライドは、燭台の火を見つめた。
慈善院の施療所には、施療録がある。訪れた者の名と、日付と、施した手当てを、施療所の者が書き残す帳面。
二月十四日のミーナの元気な署名を、アデライドに見せてくれた帳面だ。
あの年老いた修道女が、今もあの施療所にいるのなら。
アデライドは、立ち上がった。窓の外は、とうに暗い。慈善院の門が開くのは、明日の朝だった。
七日のうち、一日目が終わろうとしていた。
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