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婚約破棄は結構ですので、その断罪書にご署名をいただけますか 〜紙一枚で、片をつけます〜  作者: 桜野結
第1章

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第16話 施療録

 慈善院の施療所は、半年前と同じ匂いがした。


 薬草を煎じる匂いと、洗いざらしの布の匂い。待合の長椅子には、朝から子どもを抱いた母親たちが並んでいる。


 年老いた修道女は、奥の小部屋で帳面をつけていた。アデライドの顔を見ると、ペンを置き、ゆっくりと眼鏡を外した。


「ヴァイセンブルクのお嬢さま。ミーナは、元気にしておりますか」


「北で、水車の氷を割っておいでです」


「そうですか」


 修道女の目元が、わずかに緩んだ。それから、アデライドの後ろに立つ喪服の女を見て、その緩みが消える。


「……ロッシュさんの、奥様ですね」


「ご存じなのですか」


「お嬢さんの葬儀の知らせは、ここにも届きました」


 修道女は、アグネスと名乗った。四十年、この施療所にいるという。


◇


 去年の夏の終わりの施療録は、棚の二段目にあった。


 アグネスはそれを卓に置いたが、すぐには開かなかった。両手を表紙の上に重ねたまま、アデライドを見る。


「お嬢さまが何をお探しなのか、わかっております」


「はい」


「あの朝のことは、よく覚えております。夜明けすぐに、一人で来られました。水色の服の肩を、自分で繕った跡がありました。繕い方が、上手ではなかった」


 アグネスは、表紙の上の指を組み直した。


「手当てをしながら、何があったのかと訊きました。転んだ、と言われました。それ以上は、何も。──ただ、帰り際に、三度おっしゃいました。誰にも言わないで、と」


 ヘレーネの肩が、小さく震えた。


「施療録は、手当ての記録でございます」


 アグネスは言った。


「人を裁くための帳面ではありません。ミーナのときは、あの子が元気だったことを示すだけでした。誰の名誉も傷つけなかった。けれど今度は、違います。これを開けば、あの子が誰にも言わないでと頼んだことを、わたくしが破ることになる」


「おっしゃるとおりです」


 アデライドは、施療録には手を伸ばさなかった。


「ですから、わたくしはお願いいたしません。お願いできるのは、わたくしではございませんので」


 アグネスが、目を上げた。


 アデライドは、半歩下がる。ヘレーネが、卓の前に残される形になった。


◇


 ヘレーネは、長いこと黙っていた。


 喪服の袖口の擦り切れたところを、指でなぞっている。何度も、何度も。


「……あの子が、言わないでと言ったのは」


 ようやく、声が出た。


「恥ずかしかったからだと思います。自分が悪いと、思っていたんです。園遊会に、仕立て直しの服で行ったことも。若様に声をかけられて、嬉しくてついていったことも。──全部、自分のせいだと」


 ヘレーネは、施療録の表紙に手を伸ばした。触れる寸前で、止める。


「でも、恥ずかしいのは、あの子じゃありません」


 指が、表紙に触れた。


「あの子は、誰にも言わないでと言いました。わたしにも、言いませんでした。言わないまま、一人で手紙を書いて、一人で逝きました。──あの子が言えなかったことを、わたしは、言わせてやりたいんです。あの子の手紙を使わずに、あの子の字を使わずに」


 アグネスは、ヘレーネの手の上に、自分の手を重ねた。


 しわだらけの手だった。四十年、人の傷に薬を塗ってきた手だ。


「……開きましょう」


◇


 その日の頁には、リーゼ・ロッシュの名と、十七の歳と、手当ての内容が書かれていた。


 両の手首に、指の形の痣。


 唇の端に、切れた傷。


 右の肩に、擦り傷。服の縫い目が裂けたところと、同じ位置に。


 本人の申すところ、転倒による、と。


 その下に、アグネスの字で、小さく一行が添えられていた。


 ──転倒にて、両の手首に指の痕は付かず。


 アデライドは、その一行を三度読んだ。


「お書きになったのですね」


「書かずにおれませんでした」


 アグネスは、眼鏡をかけ直した。


「施療録は、手当ての記録です。けれど、見たものを見なかったことにする帳面でもございません。──あの子が転んだと言うなら、転んだと書く。わたくしが見たものも、見たとおりに書く。それだけです」


「写しを、お願いできますか」


「手当ての内容と、日付だけでよろしければ」


 アグネスは言った。


「誰にも言わないで、と三度おっしゃったことは、写しません。あれは、あの子の言葉です。手当ての記録ではございません」


 アデライドは、深く頭を下げた。


◇


 記録院の窓口で、アデライドは書式十七番を出した。


 申立の事項は、一行である。


 公証簿、アイゼナハ伯爵家次男コンラートとロッシュ商会との示談書。「双方の合意に基づくものであった」との記載は事実と異なるので、これを削られたい。


 添えたのは、施療録の写し。日付は、園遊会の翌朝。そして示談書の公証の日付は、その三日後だった。


 手首に指の痕のある娘が、施療所を訪れる。その三日後、伯爵家が金貨五百枚を払い、合意の上だったと紙に書かせた。


 順番は、それだけのことである。


 ルーカスは申立書を二度読み、受理印を持ち上げたまま、アデライドを見た。


「令嬢。これが受理されれば、申立書も公開になります」


「承知しております」


「ロッシュさんのお嬢さんの名前も、施療録の中身も。誰でも、銅貨二枚で」


「承知しております」


「……噂が、また」


「ロッシュ夫人とは、そのお話もいたしました」


 アデライドは、手数料の銀貨を三枚、台に並べた。


「噂は、もう撒かれております。身持ちの悪い娘が、若様に言い寄ったと。──いま王都に出回っているのは、アイゼナハ家の書いた話だけです。夫人は、それを放っておくより、娘の手首の痣を人に読ませるほうを選ばれました」


 朱の印が、紙に落ちた。


◇


 コンラート・フォン・アイゼナハが屋敷を訪ねてきたのは、その二日後だった。


 先触れもなく、正門から。近衛の制服の上に、夏物の軽い外套を羽織っている。背が高く、顔立ちが整い、笑うと目尻に人好きのする皺が寄った。社交界の令嬢たちが噂するのも、無理はない。


「ヴァイセンブルク嬢。お噂はかねがね」


 応接間の椅子に座るなり、コンラートは足を組んだ。


「訂正の申立を、お出しになったそうですね。わたしの示談書に」


「はい」


「驚きました。あなたが、ああいう手合いの肩を持たれるとは」


「ああいう手合い、とは」


「商家の娘ですよ。伯爵家の園遊会に呼ばれて、舞い上がって。若い騎士に声をかけられて、自分からついてきた。──よくある話でしょう。あの娘は、いやだとは言わなかった」


 ハンナが、盆を取り落としかけた。


 アデライドは、表情を変えなかった。


 この男は、手紙の存在を知らない。いやだと言いました、何度も言いました、と書かれた便箋が、ロッシュ家の裁縫箱の底にあったことを。


 知らないから、平然と言える。


「示談は、済んでいます」


 コンラートは続けた。


「娘の父親が署名した。公証も受けた。金も払った。父親が合意だと認めた話を、赤の他人のあなたが、いまさら掘り返す理由がどこにあるんです」


「リーゼ様は、ご署名なさっておりません」


「未成年です。父親が署名するものでしょう」


「ええ。ですから、リーゼ様の合意は、どこにも書かれておりません。書かれているのは、お父上が、娘は合意していたと認めた、ということだけです。──お父上は、その場におられませんでした」


 コンラートの目尻の皺が、消えた。


「申立書が公開になれば」


 笑みを消した声は、ずいぶん冷たかった。


「ロッシュの娘の名が、また王都中に出回りますよ。施療録の中身まで。死んだ娘の恥を、わざわざ晒してやることになる。それでも、いいんですか」


「恥ずかしいのは、リーゼ様ではございません」


 アデライドは言った。


「ロッシュ夫人が、そう仰いました。わたくしも、そう思います」


 コンラートは、しばらくアデライドを見ていた。それから、ゆっくりと立ち上がる。


「ロッシュ夫人は、あなたに本件を話した。示談書の口外の約束を、破ったわけだ。──七日の期限は、明後日です。金貨千五百枚。あの商会に、払えるとは思えませんがね」


 扉が閉まった。


◇


 その夕方、記録院からルーカスの使いが来た。


 短い走り書きが一枚。


 ──今日の午後、申立書の写しの請求がありました。


 ──請求者は、ヴァレンシュタイン公爵家のアメリー嬢。家令ではなく、ご本人が窓口に来られました。


 ──写しを受け取って、閲覧室の卓で、長いこと読んでおられました。読み終わってから、施療録の写しの頁を、もう一度開いておられました。


 ──帰り際に、僕に一つだけ訊かれました。


 ──転んで手首に指の痕は付くのか、と。



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