第17話 見舞い
照合の日は、ヘレーネの七日の期限と同じ日になった。
アイゼナハ家が、違約の申立を記録院に出したからである。ロッシュ夫人は示談書の口外の約束を破った、よって金貨千五百枚の返還を求める。記録院長は、二つの申立を同じ席で扱うと決めた。
奥の小部屋に、いつもより多くの椅子が並べられている。
上座に記録院長。書記の席にルーカス。
片側に、コンラート・フォン・アイゼナハと、伯爵家の代言人。コンラートは近衛の制服を着て、背筋を伸ばして座っていた。この部屋のなかで、自分がいちばん場違いな人間ではないと信じている顔だった。
反対側に、ヘレーネとアデライド。ヘレーネは、今日も擦り切れた喪服を着ている。
戸口の脇に、施療所のアグネス。
そして、部屋のいちばん後ろの壁際に、若い令嬢が一人、侍女を連れて座っていた。淡い金の髪を簡素に結い、目立たない灰色の衣装を着ている。
アメリー・フォン・ヴァレンシュタイン。
照合は公開で行われる。誰が傍聴しても、止める規則はない。
コンラートは、彼女に気づいていなかった。
◇
「訂正の申立から、はじめます」
記録院長が、示談書の原本と、施療録の写しを並べた。
「相手方のご意見を」
代言人が立ち上がった。
「施療録に記された傷が、何によるものか。記録からは、わかりません」
滑らかな声である。
「転倒ではないと施療所の方が添え書きをなさっていますが、それは見立てにすぎません。仮に誰かに付けられた痕だとしても、それが当家の次男によるものだとは、どこにも書かれておりません。園遊会のあと、娘が辻馬車で帰る途中に何があったか。誰にもわからないのです」
代言人は、示談書を指で叩いた。
「一方、この示談書には、娘の父親が、合意の上だったと認めた署名がございます。公証も受けております。見立ての一行と、父親の署名。どちらが重いかは、明らかでございましょう」
記録院長は、表情を変えなかった。
「申立人」
アデライドは、立ち上がらなかった。座ったまま、示談書の原本に目を落とす。
「代言人様の仰るとおり、施療録には、傷を付けた者の名は書かれておりません」
代言人が、わずかに眉を上げた。
「ですから、施療録の話はいたしません。──この示談書の、二行目の話をいたします」
アデライドは、原本の一行を指で示した。
「アイゼナハ家は、ロッシュ家に対し、見舞いとして金貨五百枚を支払う」
部屋が、静かになった。
「見舞い、と書いてございます」
「……それが、何か」
「見舞いとは、病や傷を負った方に贈るものでございます」
アデライドは、代言人を見た。
「合意の上の交際で、誰も傷を負っていないのでしたら、見舞いは要りません。見舞いを贈ったということは、誰かが傷を負ったということです。──では、何の傷の見舞いでございましょう」
代言人の口が、開きかけて、止まった。
「園遊会のあと、辻馬車の帰り道で、誰か知らない者に付けられた傷でしょうか。そうであれば、アイゼナハ家が金貨五百枚の見舞いを贈る理由はございません。アイゼナハ家は、ご自分の家で付いた傷だとご存じだったから、見舞いをお贈りになった。そう読むほかございません」
施療録の日付。その三日後の、示談書の日付。手首に指の痕のある娘。三日後の、金貨五百枚の見舞い。
「傷を負わせた相手に見舞いを贈りながら、同じ紙に、合意の上だったと書く。──この紙は、一枚のなかで食い違っております」
◇
「手紙でもあるなら、出せばいい」
コンラートが、はじめて口を開いた。
代言人が袖を引いたが、コンラートは振り払った。
「娘が何か書き残していたなら、出せばいい。嫌だった、とでも書いてあるんだろう。出せないということは、何もないということだ」
ヘレーネの肩が、震えた。
アデライドは、ヘレーネの手に、自分の手を重ねた。
「手紙は、ございます」
コンラートの顔が、ほんの一瞬、固まった。
「ございますが、出しません」
「……は」
「リーゼ様がお母様に宛てて書かれたものです。お母様のほかに、読む者はおりません。記録院にも、この席にも、出しません。お約束いたしましたので」
コンラートは、笑った。人好きのする目尻の皺が、戻っていた。
「なら、ないのと同じだ」
「ええ」
アデライドは頷いた。
「紙に書かれていないことで、人を責めることは、わたくしはいたしません。ですから、手紙のことは、これ以上申しません。申し上げているのは、アイゼナハ家の代言人様がお書きになった、見舞いの二字だけでございます」
コンラートの笑みが、今度こそ消えた。
部屋の後ろの壁際で、アメリー・フォン・ヴァレンシュタインが、膝の上の扇を閉じる音がした。
◇
「違約の申立に移ります」
記録院長が、別の書類を取り上げた。
「相手方は、ロッシュ夫人が、ヴァイセンブルク嬢に本件を口外したと申し立てております。ロッシュ夫人」
「はい」
「ヴァイセンブルク嬢に、本件を話されましたか」
「話しました」
ヘレーネは、隠さなかった。
「銀貨三枚を払って、頼みに行きました」
代言人が、勢いを取り戻したように立ち上がった。
「ご覧のとおりです。示談書には、以後一切口外せず、とございます。ロッシュ夫人は、自らそれを破られた。定めのとおり、受領した金貨の三倍を」
「院長様」
アデライドが、静かに言った。
「口外とは、世に知らしめることでございます。──この示談書は、去年の夏の終わりから、記録院の公証簿に綴られておりました。公証簿は公開文書です。索引は窓口の脇の台に置かれ、閲覧は無料。写しは、銅貨二枚で誰でも取れます」
ルーカスが、書記の席で控えの綴りを開いた。
「この示談書の写しの請求は、ロッシュ夫人のほかに、ヴァレンシュタイン公爵家から一件ございます」
部屋の後ろで、アメリーが顔を上げた。コンラートが、はじめて振り返る。彼の顔から、血の気が引いていった。
「公証を求めたのは、アイゼナハ家でございます」
アデライドは続けた。
「ロッシュ家の口を縛るために、この紙を記録院に預け、誰でも読める棚に並べたのは、アイゼナハ家ご自身です。公爵家の方がこの紙をお読みになったのは、ロッシュ夫人が話したからではございません。アイゼナハ家が、棚に並べておいたからです」
代言人は、何も言わなかった。
「ロッシュ夫人がわたくしに話したことで、世に知れたことは、何ひとつございません。わたくしが記録院に出したのは、公開の示談書と、施療録の写しだけです。──本件をいちばん先に、いちばん広く口外なさったのは、公証を求めた方でございます」
◇
記録院長の裁定は、短かった。
示談書のうち、「双方の合意に基づくものであった」との記載を削る。訂正の根拠として、施療録の写しと、同じ示談書の「見舞い」の文言を余白に記す。申立書は原本に綴じこみ、同じ函に永久保存する。
違約の申立は、却下する。
「公証を求めた者が自ら公開の棚に置いた文書を、相手方が口外したとは申せません」
院長は、書類を揃えて端を叩いた。
「なお、訂正後の示談書は、以後も公証簿に綴られたまま、公開されます」
合意の上、という字に、訂正線が引かれる。
その余白に、手首の痣と、見舞いの二字が残る。
これから先、アイゼナハの名を索引で引いた者は、誰でもそれを読むことになる。
◇
部屋の後ろで、椅子の動く音がする。
アメリー・フォン・ヴァレンシュタインが、立ち上がっていた。侍女が慌てて袖を引いたが、令嬢はそれを静かに外した。
「アイゼナハ様」
コンラートが、振り返ったまま動けずにいる。
「夏至の宴のお話は、なかったことにしていただけますか。父には、わたくしから申します」
「アメリー、これは」
「父は、片のついた話だと申しました。示談書があるから、と。わたくしも、そう思おうといたしました」
アメリーは、扇を握った手に力をこめた。
「けれど、この窓口の書記の方に伺いましたの。転んで、手首に指の痕は付くのか、と。──付かないそうです」
令嬢は、ヘレーネのほうへ向き直り、深く頭を下げた。
それから、侍女を連れて部屋を出ていった。
◇
コンラート・フォン・アイゼナハは、その月のうちに近衛を退いた。
騎士団長から、そう勧められたのだという。誓約に曰く、騎士は弱き者に剣を向けず。剣を向けたとは、どこにも書かれていない。ただ、記録院の公証簿に、訂正線の引かれた一行と、見舞いの二字がある。それで足りた。
社交界から、アイゼナハ家の次男への招待状は、完全に途絶えた。
同じ年頃の令息たちは、廊下ですれ違っても目を伏せるという。薄情なのではない。訂正された示談書の男に近づく理由が、誰にもないというだけだ。
アデライドは、その話をハンナから聞いた。聞いて、何も言わなかった。
◇
ロッシュ商会の金貨五百枚は、記録院を通して、アイゼナハ家に返された。
記録院の返還の書式には、受け取った側の署名が要る。アイゼナハ家の代言人は、見舞金、確かに返還を受く、と書いて署名した。その紙もまた、同じ函に綴じられた。
「娘の、いやを」
記録院の石段を下りながら、ヘレーネが言った。
「金貨で、買い戻しました」
「はい」
「高かったのか、安かったのか、わかりません」
「わたくしにも、わかりません」
石段の下で、ヘレーネは立ち止まった。喪服の胸元に手を当てる。そこに、封筒が一通しまわれているのを、アデライドは知っていた。
「この手紙は、どうすればいいでしょう」
「どこにも、綴じないでくださいませ」
アデライドは言った。
「記録院にも、教会にも、どこにも。お母様のお手元に置いて、お母様だけがお読みになればよろしいのです。──紙には、棚に並べるためのものと、並べないためのものがございます。これは、並べないための紙です」
ヘレーネは、封筒の上から、胸を押さえた。
ひと冬ぶりに、泣いた。
◇
屋敷に戻ると、父の書斎に客がいた。
宰相ヴェルナーである。
老宰相は、燭台の前の椅子に座り、父と向かい合っていた。アデライドが入ると、ゆっくりと立ち上がって一礼した。
「令嬢。今日の照合の話は、もう宮廷に届いております」
「お早いですね」
「早いのは、噂ではございません。恐れのほうです」
ヴェルナーは、懐から一枚の紙を出した。宮廷の厚手の紙に、書記の整った字で、長い文面が綴られている。
「この春から、あなたが書式十七番で直した紙が、何枚になるかご存じですか。王太子の断罪録。伯爵の婚姻届。子爵の土地の原本。北の商会の契約。そして今日、伯爵家の示談書」
老宰相は、紙を卓に置いた。
「宮廷の方々は、怖くなられたのです。ご自分の書かせた紙が、いつ銀貨三枚で直されるか、と」
アデライドは、紙を見た。
表題に、こうあった。
──公文書記載事項の訂正申立に関する勅令の案。
「王族の署名ある文書、ならびに公証を受けた文書は、訂正申立の対象としない」
ヴェルナーは、条文を読み上げた。
「王妃様の侍従長が起草し、貴族院の半数が賛同の署名を寄せております。陛下のご裁可を得れば、ひと月のうちに発せられるでしょう」
老宰相は、アデライドを見た。
「書式十七番を、なくすおつもりです」
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