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婚約破棄は結構ですので、その断罪書にご署名をいただけますか 〜紙一枚で、片をつけます〜  作者: 桜野結
第1章

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第18話 勅令案

 宰相が置いていった勅令案を、アデライドは夜明けまでかけて読んだ。


 条文は、全部で六つある。


 第一条。王族の署名ある文書、ならびに公証を受けた文書は、訂正申立の対象としない。


 第二条。公文書記載事項の訂正申立は、記録院長の許しを得た者に限り、これをなすことができる。


 第三条と第五条は、申立の手数料と期限の定めだった。手数料は、銀貨三枚から金貨三枚に改める、とある。


 第六条は、勅令の発せられる日付の定め。


 そして、第四条。


 ──本勅令の発せらるる以前になされたる訂正のうち、第一条に該当する文書にかかるものは、これを取り消し、原本の記載に復す。


 アデライドは、その一行を読んで、ペンを置いた。


 窓の外が、白みはじめている。


◇


「取り消す、とは」


 朝食の席で、父が訊いた。


「訂正線を消して、元の記載に戻す、ということです」


 アデライドは、勅令案の写しを卓の上に置いた。


「王族の署名ある文書。──殿下の断罪録は、殿下のご署名と王太子印のある文書です。この勅令が出れば、あの断罪録の訂正は取り消されます。訂正線は消え、四行は元どおりになります」


 父のナイフが止まった。


「二月十四日、王宮南庭の東屋にて。毒を混ぜた茶を供した。ミーナは三日、寝込んだ。侍女のケーテが、一部始終を見ている。──わたくしは、公文書のうえで、また毒を盛った女に戻ります」


「審問で、陛下が認めたことだぞ」


「ですから、第四条があるのです」


 アデライドは、署名の頁をめくった。


 勅令案の末尾に、賛同した貴族たちの署名が並んでいる。三十と少し。貴族院のほぼ半数にあたる。


 グラーツ伯爵家の当主代理。フォルクマー子爵家の縁者。アイゼナハ伯爵。北のブラント商会と取引の深い家の名も、いくつか見える。


「この春から、わたくしが直した紙の、持ち主の縁者ばかりです」


 父は、署名の列を指でたどった。一人ずつ。それから、低く唸った。


「……報復か」


「報復だけでしたら、第四条は要りません。これからの訂正を止めるだけなら、第一条と第二条で足ります。──この方々は、止めたいのではございません。戻したいのです」


◇


 公証を受けた文書、という一語も、アデライドの目に刺さっていた。


 アイゼナハ家の示談書は、公証を受けている。第四条が通れば、訂正は取り消される。「双方の合意に基づくものであった」という一行が、訂正線のないまま、記録院の棚に戻る。


 手首の痣の余白も、見舞いの二字の余白も、消える。


 ヘレーネが娘の「いや」を金貨で買い戻した日のことも、なかったことになる。


「クラリッサの婚姻届は」


 父が訊いた。


「あれは、王族の署名も公証もございません。第四条には当たりません」


「なら、あの娘は」


「グラーツ伯爵家の当主代理が、署名しておりますね」


 アデライドは、署名の列の一つを指で押さえた。


「第一条の、公証を受けた文書、という定めを、どこまで広く読むか。記録院の受理印を公証と同じとみなす、と誰かが言いだせば、婚姻届も入ります。──言いだす方は、いくらでもいらっしゃるでしょう」


◇


 昼過ぎに、クラリッサが来た。


 女官の衣装のまま、侍女もつけずに、正門から駆けこんでくる。応接間の扉を開けるなり、息を切らして言った。


「アデライド。第四条」


「お読みになったのですか」


「宮廷じゅうが読んでるわよ。王妃様のお付きのあいだで、写しが回ってるの」


 クラリッサは、扉の前で立ち止まった。夜中に外套をかぶって訪ねてきた、あの春の夜と同じ場所だった。


「わたし、またグラーツの妻になるの」


 声が、震えていた。


「受理印は公証と同じだって、誰かが言ってるって。そうしたら、訂正は取り消されて、受理日は建国祭の当日に戻って、わたしは十九歳のまま、あの人の妻に」


「クラリッサ」


「伯爵は、検察院に呼ばれてるのよ。二人目の奥様のことで。でも、わたしがまた妻に戻ったら。──妻なら、家内の事になる。伯爵家の裁きで済む。そう言ってる人がいるの」


 アデライドは、立ち上がった。


 クラリッサの肩に、手を置く。それしかできなかった。大丈夫だとは、言えなかった。紙に書かれていないことで、人を安心させることはできない。


「まだ、陛下のご裁可はございません」


「いつ」


「宰相閣下のお話では、十日後の御前会議で」


「十日」


 クラリッサは、窓の外を見た。前庭の敷石の継ぎ目に、夏草が伸びている。


「十日で、全部戻るのね。あなたが、この春にやったこと」


◇


 その夜、アデライドは母の寝室にいた。


 フレデリカは、クラリッサが帰ったあとで、ハンナから話を聞いたらしい。アデライドが椅子に座ると、目を閉じたまま言った。


「あなたが、毒を盛った女に戻るのね」


「公文書のうえでは」


「わたくしは、娘が毒殺犯だと、もう一度聞かされるのかしら。今度は、三百人ではなく、勅令で」


 アデライドは、答えなかった。


 母は、目を開けた。


「王妃様が、この勅令をお望みなのでしょう」


「侍従長が起草したと、宰相閣下は」


「侍従長は、王妃様のご実家の縁続き。起草したのは侍従長でも、望んだのは王妃様です」


 フレデリカは、天蓋を見上げた。


「わたくしと王妃様はね、同じ年に宮廷へ上がったのですよ。十六の春に。刺繍の針目を競って、古典の暗誦を競って、叱られるときは並んで叱られました」


 アデライドは、母の顔を見た。


 初めて聞く話だった。


「王妃様は、ご自分の息子の名が、公文書の偽りの記載とともに、永久に記録院の棚に残るのが耐えられないのでしょう。わたくしには、その気持ちがわかります」


「お母様」


「わかるけれど」


 フレデリカは、枕の上で首を傾けた。窓の外の夏草のほうへ。


「わたくしは、あの夜から歩けません。その紙を戻せば、娘は毒殺犯に戻る。──王妃様のお気持ちがわかることと、それを許すことは、別の話です」


 アデライドは、かつて自分が父に言ったのと同じ言葉を、母の口から聞いていた。


 わかることと、許すことは、別の話。


「十日」


 母が言った。


「あなたは、何をするつもり」


「わかりません」


「わからないときの、あなたの顔ね」


 母は、少しだけ笑った。


「わからないときは、あなたはいつも、同じことをしますよ。紙を、最初から、もう一度読む」


 アデライドは、膝の上の勅令案を見た。


 六つの条文。三十と少しの署名。


 最初から、もう一度。


 そのとき、階下で扉を叩く音がした。夜更けである。ハンナの足音が、階段を駆け上がってくる。


「お嬢様」


 ハンナの声は、今までに聞いたことのない色をしていた。


「王妃様の、お使いです。明日の午後、こちらへお見えになると。──奥様に、お会いになりたいと仰せです」



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