↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄は結構ですので、その断罪書にご署名をいただけますか 〜紙一枚で、片をつけます〜  作者: 桜野結
第1章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
19/31

第19話 二人の母

 王妃ゲルトルートは、先触れの言葉どおり、翌日の午後に来た。


 供は侍女が一人だけ。王家の紋のない、黒塗りの小さな馬車だった。正門で出迎えた父に短く会釈し、案内を待たずに、階段を上がっていく。まるで、何度も来たことのある家のように。


 母の寝室の前で、王妃は立ち止まった。


「ヴァイセンブルクの娘も、いらっしゃい」


 振り返らずに、そう言った。


「あなたにも、聞いてもらいます」


◇


 フレデリカは、寝台の上で身体を起こしていた。


 ハンナに髪を結わせ、頬に薄く紅を入れている。白鶴の間の夜以来、はじめてのことだった。三日かけて身体を作るような真似は、もうできない。それでも、半日かけて、起きていられるだけの力を溜めたのだろう。


「ゲルトルート様」


「フレデリカ」


 王妃は、寝台の脇の椅子に腰を下ろした。侍女を下がらせ、扉を閉めさせる。部屋には、三人だけが残った。


 しばらく、誰も口をきかない。


 王妃は、フレデリカの顔を見ていた。それから、布団の上から、脚のあたりに目を落とした。


「……歩けないのは、本当なのね」


「本当ですよ」


「噂だと思っていました。ヴァイセンブルクが、同情を集めるために言いふらしているのだと。侍従長が、そう言うので」


「侍従長らしいこと」


 フレデリカは、薄く笑った。


「確かめにいらしたの」


「いいえ」


 王妃は、膝の上で手を組んだ。指に、王家の指輪が一つだけ光っている。


「お願いに来ました」


◇


「あの子は、読まない子でした」


 王妃は、窓のほうを見て言った。


「幼い頃から、紙を嫌がりました。字を覚えるのは早かったのに、長い書面になると、途中で投げ出す。わたくしは、それでいいと思っていました。王太子は、読ませる者を持てばいい。読む者を選ぶ目があれば、それで足りる、と」


 アデライドは、黙って聞いていた。


「だから、あなたを選んだのです」


 王妃は、はじめてアデライドを見た。


「十二の年に、妃教育の間に上がった三人のなかから。あなたがいちばん、紙を読むのが速かった。あなたがいれば、あの子は読まなくていい。わたくしは、そう考えました」


「存じませんでした」


「言いませんでしたから」


 王妃の目が、フレデリカに戻る。


「あの子は、読まずに生きて、読まずに断罪録に署名して、読まずに北へ行きました。わたくしが、そう育てたのです。──そして今、あの子の名は、偽りの記載をした王族として、記録院の棚に並んでいる」


 声が、わずかに揺れた。


「あなたの娘は、北へ発つあの子に言ったそうですね。百年、同じ棚に並ぶ、と。それが復讐だ、と」


「言いました」


 アデライドは、目を逸らさずに答えた。


「百年」


 王妃は、その言葉を噛みしめるように繰り返した。


「わたくしが死んで、あの子が死んで、あの子の子が死んでも、あの紙は残る。ユリウス・エディンガー・レーヴェンハルトは偽りを書いた、と。──フレデリカ。あなたも母親なら、わかるでしょう」


「わかりますよ」


「なら」


「わかるけれど、許しません」


 フレデリカは、静かに言った。


「わたくしは、あの夜、娘が毒を盛ったと聞かされました。三百人と一緒に。そのまま倒れて、もう歩けません。──ゲルトルート様の勅令が通れば、娘は、公文書のうえで、毒を盛った女に戻ります。わたくしは、それをもう一度聞かされることになる。今度は、勅令で」


 王妃は、答えなかった。


◇


「代わりのものを、用意します」


 長い沈黙のあとで、王妃が言った。


「勅令が出たあとで、王家の名で、あなたの娘の名誉を回復する詔を出します。ヴァイセンブルクの娘に罪はなかった、と。陛下のお言葉として、宮廷で読み上げさせます。──紙の上の記載は戻っても、あなたの娘が毒を盛ったと思う者は、誰もいなくなる」


 アデライドは、その申し出を聞いていた。


 悪い話ではない。少なくとも、王妃にとっては、精一杯の譲歩なのだろう。


「王妃様」


「なんです」


「その詔は、読み上げられるのでございますね」


「ええ。宮廷の大広間で」


「口頭で」


 王妃が、眉を寄せた。


「……何が言いたいの」


「あの夜、わたくしは殿下にお願いいたしました。断罪を、正式なものとして扱っていただきたい、と。口頭のみでは、わたくしの家名がいつまでも宙に浮いたままになる。噂だけが残り、いつ、どこで、何をしたのか、誰も正確には言えなくなる」


 アデライドは、母の寝台の縁に手を置いた。


「紙には毒を盛ったと書かれ、口では罪がなかったと言われる。百年後、どちらが残るかは、王妃様がいちばんよくご存じのはずです。──わたくしが殿下に、百年、同じ棚に並ぶと申し上げたのは、紙が残るからでございます」


 王妃は、アデライドを見ていた。


 長いこと、そうしている。


 やがて、立ち上がった。椅子の脚が、床をわずかに擦る。


「フレデリカ」


「はい」


「あなたの娘は、あなたに似ていないわね」


「よく言われます。父親似だと」


「そうかしら」


 王妃は、扉の把手に手をかけた。


「十六の春、刺繍の針目を競ったとき。あなたは一度も譲らなかった。わたくしが泣いても、侍女頭に叱られても。──あなたにそっくりよ」


 扉が閉まった。


 馬車の音が遠ざかるまで、フレデリカは目を閉じたままでいる。


 閉じたまま、言った。


「……わたくし、あの方の刺繍に、一度も勝てなかったのですよ」


「お母様」


「負けたくなくて、譲らなかっただけです」


 母の頬の紅が、少しだけ崩れていた。


◇


 その夜も、アデライドは勅令案を読んだ。


 最初から、もう一度。


 第一条。王族の署名ある文書、ならびに公証を受けた文書は、訂正申立の対象としない。


 第四条。本勅令の発せらるる以前になされたる訂正のうち、第一条に該当する文書にかかるものは、これを取り消し、原本の記載に復す。


 読みながら、王妃の言葉が耳に残っていた。


 あの子の名は、偽りの記載をした王族として、記録院の棚に並んでいる。


 棚。


 アデライドは、断罪録が綴じられている函のことを思い浮かべた。記録院長が審問の日に言っていた。原本に訂正線を引き、訂正の根拠と日付を余白に記す。訂正申立書は原本に綴じ込み、同一の函に永久保存する。


 その函に、ほかに何が入っていただろう。


 翌朝、記録院の扉が開くのと同時に、アデライドは閲覧室の前室に立っていた。


「断罪録の函を、閲覧させていただけますか」


 ルーカスは、何も訊かずに書庫へ向かった。


 函は、思っていたより重かった。樫の板で作られた、何の飾りもない箱である。蓋を開けると、紙の匂いがした。


 一番上に、断罪録の原本。四行の記載に、それぞれ訂正線が引かれ、余白に細かい字で訂正の根拠が記されている。工部の営繕日誌。薬師組合の払出台帳。慈善院の施療録。西門の関所通行録。


 その下に、書式十七番の申立書。銀貨三枚の受領印。


 そして、いちばん下に、もう一枚。


 上質な厚手の紙に、書記の整った字で、短い文面が記されている。


 ──公文書記載事項の訂正申立につき、これを認める。


 末尾に、署名があった。


 国王の署名と、玉璽。


 審問の日、国王が記録院長に訊いたことを、アデライドは思い出していた。訂正を認めた場合、断罪録はどう残る。記録院長は答えた。原本に訂正線を引き、訂正の根拠を余白に記す。そして国王は、しばらく目を閉じ、それから、この紙に署名したのだ。


 訂正を認める、と。


 アデライドは、裁定書を両手で持ったまま、動けなくなった。


 第四条は、訂正を取り消すと言っている。


 だが、この訂正を行ったのは、記録院ではない。アデライドでもない。国王が、ご自分の手で署名して、認めたのだ。


 訂正を取り消すということは、この裁定書に書かれた「これを認める」を、なかったことにするということだ。


 王族の署名ある文書を。


 国王ご自身の署名ある文書を。


 第一条は、それを禁じている。



お読みいただき、ありがとうございました!

皆様にお願いです

ブックマークや下の【☆☆☆☆☆】をタップして【★★★★★】に

応援していただけますと励みになります! よろしくお願いいたします(^^♪



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。