第19話 二人の母
王妃ゲルトルートは、先触れの言葉どおり、翌日の午後に来た。
供は侍女が一人だけ。王家の紋のない、黒塗りの小さな馬車だった。正門で出迎えた父に短く会釈し、案内を待たずに、階段を上がっていく。まるで、何度も来たことのある家のように。
母の寝室の前で、王妃は立ち止まった。
「ヴァイセンブルクの娘も、いらっしゃい」
振り返らずに、そう言った。
「あなたにも、聞いてもらいます」
◇
フレデリカは、寝台の上で身体を起こしていた。
ハンナに髪を結わせ、頬に薄く紅を入れている。白鶴の間の夜以来、はじめてのことだった。三日かけて身体を作るような真似は、もうできない。それでも、半日かけて、起きていられるだけの力を溜めたのだろう。
「ゲルトルート様」
「フレデリカ」
王妃は、寝台の脇の椅子に腰を下ろした。侍女を下がらせ、扉を閉めさせる。部屋には、三人だけが残った。
しばらく、誰も口をきかない。
王妃は、フレデリカの顔を見ていた。それから、布団の上から、脚のあたりに目を落とした。
「……歩けないのは、本当なのね」
「本当ですよ」
「噂だと思っていました。ヴァイセンブルクが、同情を集めるために言いふらしているのだと。侍従長が、そう言うので」
「侍従長らしいこと」
フレデリカは、薄く笑った。
「確かめにいらしたの」
「いいえ」
王妃は、膝の上で手を組んだ。指に、王家の指輪が一つだけ光っている。
「お願いに来ました」
◇
「あの子は、読まない子でした」
王妃は、窓のほうを見て言った。
「幼い頃から、紙を嫌がりました。字を覚えるのは早かったのに、長い書面になると、途中で投げ出す。わたくしは、それでいいと思っていました。王太子は、読ませる者を持てばいい。読む者を選ぶ目があれば、それで足りる、と」
アデライドは、黙って聞いていた。
「だから、あなたを選んだのです」
王妃は、はじめてアデライドを見た。
「十二の年に、妃教育の間に上がった三人のなかから。あなたがいちばん、紙を読むのが速かった。あなたがいれば、あの子は読まなくていい。わたくしは、そう考えました」
「存じませんでした」
「言いませんでしたから」
王妃の目が、フレデリカに戻る。
「あの子は、読まずに生きて、読まずに断罪録に署名して、読まずに北へ行きました。わたくしが、そう育てたのです。──そして今、あの子の名は、偽りの記載をした王族として、記録院の棚に並んでいる」
声が、わずかに揺れた。
「あなたの娘は、北へ発つあの子に言ったそうですね。百年、同じ棚に並ぶ、と。それが復讐だ、と」
「言いました」
アデライドは、目を逸らさずに答えた。
「百年」
王妃は、その言葉を噛みしめるように繰り返した。
「わたくしが死んで、あの子が死んで、あの子の子が死んでも、あの紙は残る。ユリウス・エディンガー・レーヴェンハルトは偽りを書いた、と。──フレデリカ。あなたも母親なら、わかるでしょう」
「わかりますよ」
「なら」
「わかるけれど、許しません」
フレデリカは、静かに言った。
「わたくしは、あの夜、娘が毒を盛ったと聞かされました。三百人と一緒に。そのまま倒れて、もう歩けません。──ゲルトルート様の勅令が通れば、娘は、公文書のうえで、毒を盛った女に戻ります。わたくしは、それをもう一度聞かされることになる。今度は、勅令で」
王妃は、答えなかった。
◇
「代わりのものを、用意します」
長い沈黙のあとで、王妃が言った。
「勅令が出たあとで、王家の名で、あなたの娘の名誉を回復する詔を出します。ヴァイセンブルクの娘に罪はなかった、と。陛下のお言葉として、宮廷で読み上げさせます。──紙の上の記載は戻っても、あなたの娘が毒を盛ったと思う者は、誰もいなくなる」
アデライドは、その申し出を聞いていた。
悪い話ではない。少なくとも、王妃にとっては、精一杯の譲歩なのだろう。
「王妃様」
「なんです」
「その詔は、読み上げられるのでございますね」
「ええ。宮廷の大広間で」
「口頭で」
王妃が、眉を寄せた。
「……何が言いたいの」
「あの夜、わたくしは殿下にお願いいたしました。断罪を、正式なものとして扱っていただきたい、と。口頭のみでは、わたくしの家名がいつまでも宙に浮いたままになる。噂だけが残り、いつ、どこで、何をしたのか、誰も正確には言えなくなる」
アデライドは、母の寝台の縁に手を置いた。
「紙には毒を盛ったと書かれ、口では罪がなかったと言われる。百年後、どちらが残るかは、王妃様がいちばんよくご存じのはずです。──わたくしが殿下に、百年、同じ棚に並ぶと申し上げたのは、紙が残るからでございます」
王妃は、アデライドを見ていた。
長いこと、そうしている。
やがて、立ち上がった。椅子の脚が、床をわずかに擦る。
「フレデリカ」
「はい」
「あなたの娘は、あなたに似ていないわね」
「よく言われます。父親似だと」
「そうかしら」
王妃は、扉の把手に手をかけた。
「十六の春、刺繍の針目を競ったとき。あなたは一度も譲らなかった。わたくしが泣いても、侍女頭に叱られても。──あなたにそっくりよ」
扉が閉まった。
馬車の音が遠ざかるまで、フレデリカは目を閉じたままでいる。
閉じたまま、言った。
「……わたくし、あの方の刺繍に、一度も勝てなかったのですよ」
「お母様」
「負けたくなくて、譲らなかっただけです」
母の頬の紅が、少しだけ崩れていた。
◇
その夜も、アデライドは勅令案を読んだ。
最初から、もう一度。
第一条。王族の署名ある文書、ならびに公証を受けた文書は、訂正申立の対象としない。
第四条。本勅令の発せらるる以前になされたる訂正のうち、第一条に該当する文書にかかるものは、これを取り消し、原本の記載に復す。
読みながら、王妃の言葉が耳に残っていた。
あの子の名は、偽りの記載をした王族として、記録院の棚に並んでいる。
棚。
アデライドは、断罪録が綴じられている函のことを思い浮かべた。記録院長が審問の日に言っていた。原本に訂正線を引き、訂正の根拠と日付を余白に記す。訂正申立書は原本に綴じ込み、同一の函に永久保存する。
その函に、ほかに何が入っていただろう。
翌朝、記録院の扉が開くのと同時に、アデライドは閲覧室の前室に立っていた。
「断罪録の函を、閲覧させていただけますか」
ルーカスは、何も訊かずに書庫へ向かった。
函は、思っていたより重かった。樫の板で作られた、何の飾りもない箱である。蓋を開けると、紙の匂いがした。
一番上に、断罪録の原本。四行の記載に、それぞれ訂正線が引かれ、余白に細かい字で訂正の根拠が記されている。工部の営繕日誌。薬師組合の払出台帳。慈善院の施療録。西門の関所通行録。
その下に、書式十七番の申立書。銀貨三枚の受領印。
そして、いちばん下に、もう一枚。
上質な厚手の紙に、書記の整った字で、短い文面が記されている。
──公文書記載事項の訂正申立につき、これを認める。
末尾に、署名があった。
国王の署名と、玉璽。
審問の日、国王が記録院長に訊いたことを、アデライドは思い出していた。訂正を認めた場合、断罪録はどう残る。記録院長は答えた。原本に訂正線を引き、訂正の根拠を余白に記す。そして国王は、しばらく目を閉じ、それから、この紙に署名したのだ。
訂正を認める、と。
アデライドは、裁定書を両手で持ったまま、動けなくなった。
第四条は、訂正を取り消すと言っている。
だが、この訂正を行ったのは、記録院ではない。アデライドでもない。国王が、ご自分の手で署名して、認めたのだ。
訂正を取り消すということは、この裁定書に書かれた「これを認める」を、なかったことにするということだ。
王族の署名ある文書を。
国王ご自身の署名ある文書を。
第一条は、それを禁じている。
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