第20話 読ませる手紙
「言わないほうがいい」
父は、裁定書の写しを卓に置いて、そう言った。
書斎の燭台に、火が三本ともっている。アデライドが記録院から戻って、事の次第を話し終えたところだった。
「第一条と第四条が食い違っていると、おまえが今どこかで言えば、侍従長はその日のうちに条文を書き直す。但し、陛下の裁定にかかるものは、この限りにあらず。──一行足せば済む話だ」
「はい」
「一行足された勅令なら、陛下は迷わず署名なさる」
「はい」
アデライドは、それを帰りの馬車のなかで、もう何度も考えていた。
この食い違いは、見つけた者が黙っていてこそ効く。書き直す暇のない場所で、書き直す暇のない時に、突きつけなければならない。
御前会議の席で。陛下が羽根ペンを取る、その直前に。
「おまえは、御前会議には入れん」
「存じております」
「わしも入れん。侯爵は、呼ばれた者しか入れん」
父は、指を組んだ。
「入れるのは、陛下と王太子殿下、宰相、貴族院の議長、それから起草した侍従長。──侍従長は、敵だ。議長は、署名した側にいる。宰相は、おまえに勅令案を持ってきた。だが宰相が口を開けば、侍従長は、宰相と侯爵家が組んでいると言うだろう」
「はい」
「残るのは、一人だな」
アデライドは、頷いた。
◇
王太子への手紙は、侍従長の手を通る。
北の和解状のとき、レオンハルトへの手紙は無事に届いた。だがあのあと、王妃付きの女官のあいだで、ヴァイセンブルクの娘が王太子殿下に文書庫を開けさせた、という話が広まったらしい。侍従長は、王太子宛ての手紙を一通残らず自分で改めるようになった、とハンナが聞いてきた。
手紙に、第一条と第四条のことを書けば、侍従長が読む。侍従長が読めば、条文は書き直される。
手紙を書かずに、どうやって伝えるか。
「わたしが持っていくわ」
翌日の昼、話を聞いたクラリッサが、あっさりとそう言った。
「王妃様付きの女官は、王太子殿下のお部屋にも用事で出入りするの。お茶を運んだり、衣装の知らせを持っていったり。手紙の一通くらい、袖に入れていけば」
「見つかれば、女官の職を失います」
「知ってる」
「職を失えば、グラーツ家への借金を返す当てがなくなります」
「それも、知ってる」
クラリッサは、卓の上の焼き菓子を一つつまんだ。北の麦の粉で、ハンナが焼いたものだ。
「アデライド。わたし、あの春の夜、あなたに訊いたわよね。軽蔑するでしょう、って」
「はい」
「あなたは、軽蔑はしない、少し呆れてる、って言った。──第四条が通ったら、わたしはまたグラーツの妻になるかもしれないのよ。それを黙って待ってたら、今度こそ軽蔑されるわ。わたし自身に」
アデライドは、しばらくクラリッサを見ていた。
それから、書き物机の抽斗を開けた。
「手紙は、短くいたします」
「どうして」
「長く書けば、見つかったときに言い逃れができません。短ければ、ただの礼状に見えます」
アデライドは、便箋を一枚取り出した。
ペン先をインク壺に浸す。
書いたのは、二行だけだった。
──第一条と第四条を、続けてお読みくださいませ。
──それから、記録院の断罪録の函の、いちばん下の紙を。
署名はしなかった。
クラリッサは、便箋を受け取り、読んだ。一度。それから、もう一度。
「……これだけ」
「それだけです」
「何のことか、わからないわ」
「殿下には、わかります」
アデライドは、便箋を小さく畳んで、クラリッサの手に握らせた。
「殿下は、書類をお読みになる方ですので」
クラリッサは、握った手を胸に当てた。
「今度は、読んでから運ぶわ」
そう言って、笑った。
◇
記録院長を訪ねたのは、その夕方だった。
院長の執務室は、閲覧室の奥の階段を上がったところにある。狭い部屋に、書棚と机と椅子が一つずつ。窓の外には、記録院の中庭が見えた。
「断罪録の函の、裁定書の写しを」
アデライドが言うと、院長は眼鏡の奥で目を細めた。
「認証の印を、つけてほしいのでしょう」
「はい」
「王太子殿下が御前会議でお使いになる写しに、記録院の認証がついていなければ、侍従長は写しの真偽を疑ってみせるでしょうからね」
アデライドは、答えなかった。
院長は、どこまでわかっているのか。
「令嬢」
院長は、机の上で手を組んだ。
「わたしは、勅令に意見を申し上げる立場にございません。記録院は、陛下の勅令に従って紙を扱う役所です。勅令が出れば、第四条のとおりに、訂正線を消します。──それが、わたしの仕事です」
「存じております」
「ですが、写しを出すのも、わたしの仕事です」
院長は、引き出しから認証の印を取り出した。
「公開文書の写しを請求された者に、写しを出す。認証を求められれば、認証をつける。請求者が誰で、何に使うのかは、問わない。規則です」
印が、写しの隅に落ちた。
「令嬢は、審問の日にわたしが申し上げたことを、覚えておいでですか」
「公文書は、間違いを消す仕組みではない。間違えたことを残す仕組みだ、と」
「ええ」
院長は、写しを差し出した。
「わたしは、三十年、そう信じてこの椅子に座ってまいりました。──この勅令は、間違えたことを消す仕組みを作ろうとしています。わたしは、それに意見を申し上げる立場にございません」
院長は、眼鏡を外した。
「ただ、写しは、出します」
◇
ヴェルナーは、宰相府の執務室でアデライドを迎えた。
裁定書の写しを見せると、老宰相は長いこと黙っていた。写しを持つ手が、わずかに震えている。老いのせいか、それ以外の何かのせいか、アデライドにはわからなかった。
「……わたしは、これを読んでおりました」
ヴェルナーは言った。
「勅令案を。三度。第一条も、第四条も。それでも、気づかなかった。審問の席で、陛下が裁定書に署名なさるのを、この目で見ていたというのに」
「わたくしも、四度目で気づきました」
「四度」
「母に、最初から読めと言われましたので」
ヴェルナーは、目頭を押さえた。
「令嬢。わたしに、何をお望みですか」
「御前会議で、王太子殿下がお話しになる時をいただきたいのです」
アデライドは言った。
「殿下は、まだ十六です。御前会議の席で、陛下が勅令に署名なさろうとするとき、十六の王太子が口を開いてよいものかどうか。侍従長は、止めるでしょう。議長も、止めるでしょう。──宰相閣下だけが、止めずにいてくださればよいのです」
「それだけですか」
「それだけです」
ヴェルナーは、アデライドを見た。
「あなたが話せば、あなたの手柄になる。わたしが話せば、宰相の手柄になる。──王太子殿下が話されれば」
「殿下が、お読みになったことになります」
アデライドは、静かに言った。
「わたくしが読んだのではなく。殿下が、ご自分の目で、第一条と第四条を続けてお読みになった。そうでなければ、意味がございません。この国の王太子は、書類をお読みになる方だと。陛下の前で、宮廷の前で、そうでなければ」
老宰相は、長い息を吐いた。
「……あの夜、あなたが承知いたしましたと仰った瞬間に、わたしは席を立つべきだったと申し上げました」
「覚えております」
「今度は、座っております。最後まで」
◇
御前会議の前夜、クラリッサが屋敷に来た。
女官の衣装のまま、息を切らしていた。春の夜と同じように。けれど今度は、外套をかぶっていない。
「渡したわ」
応接間の扉の前で、クラリッサは言った。
「お茶を運んだときに。侍従長の目が離れた隙に、袖から出して。殿下は、すぐにお読みになった」
「何と、仰いましたか」
「何も。二度お読みになって、それから、便箋を暖炉にくべられたの。燃えるのを、最後まで見ておられた」
クラリッサは、少し笑った。
「それから、わたしに一言だけ。明日、読みます、って」
アデライドは、目を閉じた。
明日、読みます。
春の日、婚約の申し入れを辞退して、廊下で少年に言った言葉があった。
書類は、お読みくださいませ。
少年は、笑わずに頷いた。
あの頷きを、アデライドは信じるほかない。
この春、アデライドはずっと自分で読んできた。断罪録も、婚姻届も、原本も、和解状も、示談書も。紙の隣に紙を並べ、一字ずつ、自分の目で。
明日の御前会議では、自分は読めない。
読むのは、他の誰かだ。
ユリウスが、書いた者を信じて読まずに署名したように。アデライドは今、読む者を信じて、読まずに待つことになる。
違うのは、信じている相手が、読む人だということだけだった。




