↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄は結構ですので、その断罪書にご署名をいただけますか 〜紙一枚で、片をつけます〜  作者: 桜野結
第1章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
20/31

第20話 読ませる手紙

「言わないほうがいい」


 父は、裁定書の写しを卓に置いて、そう言った。


 書斎の燭台に、火が三本ともっている。アデライドが記録院から戻って、事の次第を話し終えたところだった。


「第一条と第四条が食い違っていると、おまえが今どこかで言えば、侍従長はその日のうちに条文を書き直す。但し、陛下の裁定にかかるものは、この限りにあらず。──一行足せば済む話だ」


「はい」


「一行足された勅令なら、陛下は迷わず署名なさる」


「はい」


 アデライドは、それを帰りの馬車のなかで、もう何度も考えていた。


 この食い違いは、見つけた者が黙っていてこそ効く。書き直す暇のない場所で、書き直す暇のない時に、突きつけなければならない。


 御前会議の席で。陛下が羽根ペンを取る、その直前に。


「おまえは、御前会議には入れん」


「存じております」


「わしも入れん。侯爵は、呼ばれた者しか入れん」


 父は、指を組んだ。


「入れるのは、陛下と王太子殿下、宰相、貴族院の議長、それから起草した侍従長。──侍従長は、敵だ。議長は、署名した側にいる。宰相は、おまえに勅令案を持ってきた。だが宰相が口を開けば、侍従長は、宰相と侯爵家が組んでいると言うだろう」


「はい」


「残るのは、一人だな」


 アデライドは、頷いた。


◇


 王太子への手紙は、侍従長の手を通る。


 北の和解状のとき、レオンハルトへの手紙は無事に届いた。だがあのあと、王妃付きの女官のあいだで、ヴァイセンブルクの娘が王太子殿下に文書庫を開けさせた、という話が広まったらしい。侍従長は、王太子宛ての手紙を一通残らず自分で改めるようになった、とハンナが聞いてきた。


 手紙に、第一条と第四条のことを書けば、侍従長が読む。侍従長が読めば、条文は書き直される。


 手紙を書かずに、どうやって伝えるか。


「わたしが持っていくわ」


 翌日の昼、話を聞いたクラリッサが、あっさりとそう言った。


「王妃様付きの女官は、王太子殿下のお部屋にも用事で出入りするの。お茶を運んだり、衣装の知らせを持っていったり。手紙の一通くらい、袖に入れていけば」


「見つかれば、女官の職を失います」


「知ってる」


「職を失えば、グラーツ家への借金を返す当てがなくなります」


「それも、知ってる」


 クラリッサは、卓の上の焼き菓子を一つつまんだ。北の麦の粉で、ハンナが焼いたものだ。


「アデライド。わたし、あの春の夜、あなたに訊いたわよね。軽蔑するでしょう、って」


「はい」


「あなたは、軽蔑はしない、少し呆れてる、って言った。──第四条が通ったら、わたしはまたグラーツの妻になるかもしれないのよ。それを黙って待ってたら、今度こそ軽蔑されるわ。わたし自身に」


 アデライドは、しばらくクラリッサを見ていた。


 それから、書き物机の抽斗を開けた。


「手紙は、短くいたします」


「どうして」


「長く書けば、見つかったときに言い逃れができません。短ければ、ただの礼状に見えます」


 アデライドは、便箋を一枚取り出した。


 ペン先をインク壺に浸す。


 書いたのは、二行だけだった。


 ──第一条と第四条を、続けてお読みくださいませ。


 ──それから、記録院の断罪録の函の、いちばん下の紙を。


 署名はしなかった。


 クラリッサは、便箋を受け取り、読んだ。一度。それから、もう一度。


「……これだけ」


「それだけです」


「何のことか、わからないわ」


「殿下には、わかります」


 アデライドは、便箋を小さく畳んで、クラリッサの手に握らせた。


「殿下は、書類をお読みになる方ですので」


 クラリッサは、握った手を胸に当てた。


「今度は、読んでから運ぶわ」


 そう言って、笑った。


◇


 記録院長を訪ねたのは、その夕方だった。


 院長の執務室は、閲覧室の奥の階段を上がったところにある。狭い部屋に、書棚と机と椅子が一つずつ。窓の外には、記録院の中庭が見えた。


「断罪録の函の、裁定書の写しを」


 アデライドが言うと、院長は眼鏡の奥で目を細めた。


「認証の印を、つけてほしいのでしょう」


「はい」


「王太子殿下が御前会議でお使いになる写しに、記録院の認証がついていなければ、侍従長は写しの真偽を疑ってみせるでしょうからね」


 アデライドは、答えなかった。


 院長は、どこまでわかっているのか。


「令嬢」


 院長は、机の上で手を組んだ。


「わたしは、勅令に意見を申し上げる立場にございません。記録院は、陛下の勅令に従って紙を扱う役所です。勅令が出れば、第四条のとおりに、訂正線を消します。──それが、わたしの仕事です」


「存じております」


「ですが、写しを出すのも、わたしの仕事です」


 院長は、引き出しから認証の印を取り出した。


「公開文書の写しを請求された者に、写しを出す。認証を求められれば、認証をつける。請求者が誰で、何に使うのかは、問わない。規則です」


 印が、写しの隅に落ちた。


「令嬢は、審問の日にわたしが申し上げたことを、覚えておいでですか」


「公文書は、間違いを消す仕組みではない。間違えたことを残す仕組みだ、と」


「ええ」


 院長は、写しを差し出した。


「わたしは、三十年、そう信じてこの椅子に座ってまいりました。──この勅令は、間違えたことを消す仕組みを作ろうとしています。わたしは、それに意見を申し上げる立場にございません」


 院長は、眼鏡を外した。


「ただ、写しは、出します」


◇


 ヴェルナーは、宰相府の執務室でアデライドを迎えた。


 裁定書の写しを見せると、老宰相は長いこと黙っていた。写しを持つ手が、わずかに震えている。老いのせいか、それ以外の何かのせいか、アデライドにはわからなかった。


「……わたしは、これを読んでおりました」


 ヴェルナーは言った。


「勅令案を。三度。第一条も、第四条も。それでも、気づかなかった。審問の席で、陛下が裁定書に署名なさるのを、この目で見ていたというのに」


「わたくしも、四度目で気づきました」


「四度」


「母に、最初から読めと言われましたので」


 ヴェルナーは、目頭を押さえた。


「令嬢。わたしに、何をお望みですか」


「御前会議で、王太子殿下がお話しになる時をいただきたいのです」


 アデライドは言った。


「殿下は、まだ十六です。御前会議の席で、陛下が勅令に署名なさろうとするとき、十六の王太子が口を開いてよいものかどうか。侍従長は、止めるでしょう。議長も、止めるでしょう。──宰相閣下だけが、止めずにいてくださればよいのです」


「それだけですか」


「それだけです」


 ヴェルナーは、アデライドを見た。


「あなたが話せば、あなたの手柄になる。わたしが話せば、宰相の手柄になる。──王太子殿下が話されれば」


「殿下が、お読みになったことになります」


 アデライドは、静かに言った。


「わたくしが読んだのではなく。殿下が、ご自分の目で、第一条と第四条を続けてお読みになった。そうでなければ、意味がございません。この国の王太子は、書類をお読みになる方だと。陛下の前で、宮廷の前で、そうでなければ」


 老宰相は、長い息を吐いた。


「……あの夜、あなたが承知いたしましたと仰った瞬間に、わたしは席を立つべきだったと申し上げました」


「覚えております」


「今度は、座っております。最後まで」


◇


 御前会議の前夜、クラリッサが屋敷に来た。


 女官の衣装のまま、息を切らしていた。春の夜と同じように。けれど今度は、外套をかぶっていない。


「渡したわ」


 応接間の扉の前で、クラリッサは言った。


「お茶を運んだときに。侍従長の目が離れた隙に、袖から出して。殿下は、すぐにお読みになった」


「何と、仰いましたか」


「何も。二度お読みになって、それから、便箋を暖炉にくべられたの。燃えるのを、最後まで見ておられた」


 クラリッサは、少し笑った。


「それから、わたしに一言だけ。明日、読みます、って」


 アデライドは、目を閉じた。


 明日、読みます。


 春の日、婚約の申し入れを辞退して、廊下で少年に言った言葉があった。


 書類は、お読みくださいませ。


 少年は、笑わずに頷いた。


 あの頷きを、アデライドは信じるほかない。


 この春、アデライドはずっと自分で読んできた。断罪録も、婚姻届も、原本も、和解状も、示談書も。紙の隣に紙を並べ、一字ずつ、自分の目で。


 明日の御前会議では、自分は読めない。


 読むのは、他の誰かだ。


 ユリウスが、書いた者を信じて読まずに署名したように。アデライドは今、読む者を信じて、読まずに待つことになる。


 違うのは、信じている相手が、読む人だということだけだった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。