第21話 棚
御前会議の間は、白鶴の間よりずっと狭く、審問の部屋よりは少しだけ広い。
長い卓の上座に、国王。その右手に王太子レオンハルト。左手に宰相ヴェルナー。卓の中ほどに貴族院の議長と、勅令案を起草した侍従長が並んでいる。
侍従長が、勅令案を読み上げた。
六つの条文。三十と少しの署名。読み上げる声は、よく通った。この男もまた、こういう声の張り方だけは巧かった。
「以上でございます。陛下の御裁可を、賜りたく存じます」
書記が、卓の上に勅令案を広げた。羽根ペンが、国王の前に置かれる。
国王は、ペンを取った。
レオンハルトは、父の指を見ている。
兄と同じ持ち方だった。中指の第二関節に、少しだけ力が入りすぎる。父から兄へ、そのまま受け継がれた指の癖。自分もまた、同じ持ち方をしていることを、少年は知っていた。
ペン先が、インク壺に沈む。
「父上」
レオンハルトの声は、自分で思っていたより小さかった。
国王の手が、止まった。
「ご署名の前に、読ませていただけますか」
◇
「殿下」
侍従長が、すぐに口を開いた。
「勅令案は、ただいまわたくしが読み上げたとおりでございます。御前会議の席で、殿下が改めてお読みになる必要は」
「王太子殿下でいらっしゃる」
ヴェルナーが、静かに遮った。
「陛下の勅令を、陛下の御前で読まれるのは、王太子殿下のお務めでございましょう。わたしは、それを止める理由を存じません」
侍従長が、宰相を睨んだ。ヴェルナーは、目を伏せたまま動かない。
国王が、ペンを置いた。
「読め」
レオンハルトは、立ち上がった。
勅令案を手に取る。一度、深く息を吸った。
「第一条。王族の署名ある文書、ならびに公証を受けた文書は、訂正申立の対象としない」
読み上げる。自分の声で。
「第四条。本勅令の発せらるる以前になされたる訂正のうち、第一条に該当する文書にかかるものは、これを取り消し、原本の記載に復す」
レオンハルトは、勅令案を卓に置いた。
それから、上着の内側から、一枚の紙を取り出した。記録院の認証印のある写し。昨夜、自分の手で読み、暖炉の火の前で、四度読み返した紙だった。
「春の審問で、父上がご署名なさった裁定書でございます」
国王の目が、写しに落ちた。
「公文書記載事項の訂正申立につき、これを認める。──父上のご署名と、玉璽がございます」
部屋が、静かになった。
「兄上の断罪録の訂正は、記録院がしたのではございません。ヴァイセンブルクの令嬢がしたのでもございません。父上が、この紙にご署名なさって、お認めになったものです」
レオンハルトは、二枚の紙を並べた。勅令案と、裁定書の写し。
「第四条は、この訂正を取り消せと申します。取り消せば、父上がお認めになったことが、なかったことになります。父上のご署名が、偽りになります」
侍従長の顔色が、変わっていった。
「第一条は、王族の署名ある文書を、直してはならぬと申します。父上のご署名は、王族の署名です。──この勅令は、第一条で、第四条を禁じております」
◇
「但し書きを」
侍従長が、声を上げた。
「但し書きを一行、加えればよろしい。陛下の裁定にかかるものは、この限りにあらず、と。それで食い違いは」
「但し書きを加えれば」
レオンハルトは、侍従長を見た。少年の目は、震えていなかった。
「兄上の断罪録の訂正は、取り消せなくなります。父上の裁定でなされたのですから。──そうなれば、第四条で取り消せるのは、記録院長の裁定でなされた訂正だけになります。婚姻届や、示談書の」
少年は、署名の列を指でたどった。
「王族の署名は守り、商家の娘の手首の痣は消す。そういう勅令に、なります」
議長が、目を逸らした。
侍従長は、口を開きかけて、閉じる。
国王は、長いこと、二枚の紙を見ていた。
やがて、裁定書の写しを手に取った。自分の署名を、指でなぞる。春の審問の日、記録院長に訊ねたことを、国王は思い出しているようだった。訂正を認めた場合、断罪録はどう残る。
「レオンハルト」
「はい」
「誰に、教わった」
少年は、少しだけ迷った。
それから、まっすぐ父を見て答えた。
「書類は読め、と言われました」
「誰に」
「兄上の、隣にいた方に」
国王は、目を閉じた。
閉じたまま、しばらく動かなかった。春の審問の日と、同じように。
「……記録院長は、あの日、こう申した」
目を開けて、国王は言った。
「公文書は、間違いを消す仕組みではない。間違えたことを残す仕組みだ、と」
国王は、勅令案を手に取った。
破りはしない。燃やしもしない。ただ、書記を呼び、卓の上に置き直させた。
「この案は、裁可せぬ」
侍従長が、膝をついた。
「ただし、捨てるな」
国王は、署名の列に目をやった。三十と少しの名。
「記録院に綴じよ。起草した者の名と、賛同した者の名とともに。──この国で、間違えたことを消そうとした者がいたということも、残しておけ」
◇
その知らせを、アデライドは父の書斎で、ヴェルナーから聞いた。
老宰相は、椅子に座るなり、長い息を吐く。それから、会議の間で起きたことを、一つずつ話した。レオンハルトが立ち上がったこと。第一条と第四条を読み上げたこと。裁定書の写しを取り出したこと。
そして、国王に誰に教わったかと訊かれて、少年が何と答えたか。
「兄上の、隣にいた方に、と」
アデライドは、窓の外を見た。
前庭の敷石の継ぎ目で、夏草が風に揺れている。もう、誰にも数えられないほどだった。
「殿下は、ご自分でお読みになったのですね」
「四度、と仰っておいででした」
ヴェルナーは言った。
「令嬢が、四度目で気づかれたと申し上げたら、殿下は少し笑っておられました。では、同じですね、と」
◇
侍従長は、その月のうちに職を辞した。
勅令案は、記録院の書庫に綴じられた。三十と少しの署名とともに。受理番号が振られ、公証簿の索引に一行が加わった。表題、公文書記載事項の訂正申立に関する勅令の案、不裁可。
閲覧は無料。写しは、銅貨二枚。
グラーツ伯爵家の当主代理は、あの署名の列に自分の名があることを、今さらのように嫌がっているという。アイゼナハ伯爵も、フォルクマー子爵家の縁者も。棚に並んだ名は、もう誰にも消せない。
◇
母が記録院へ行きたいと言いだしたのは、夏の終わりのことだった。
「あなたの棚を、見てみたいのです」
寝台の上から、フレデリカはそう言った。
「歩けないのに、どうやって」
「輿を使います。あなたのお父様に担がせます」
父は、何も言わずに輿を用意した。担ぎ手は、父と、古い御者と、それからどういうわけか、話を聞きつけたフーゴが連れてきた工部の職人が二人。
記録院の正面の石段を、輿はゆっくりと上がっていった。
閲覧室の前室で、ルーカスが待っていた。
「断罪録の函を、お持ちしました。ただ」
ルーカスは、困ったように前室の奥を見た。
「先客が、いらっしゃいます」
前室の奥の卓に、黒い衣装の女が一人、座っていた。
供は侍女が一人だけ。卓の上に、樫の板の函が開いている。女は、函の中の紙を一枚ずつ手に取り、長い時間をかけて読んでいた。
王妃ゲルトルートだった。
◇
フレデリカの輿が下ろされると、王妃は顔を上げた。
しばらく、二人の母は、黙って互いを見ていた。
「……はじめて、読みました」
王妃が、先に口を開いた。
「あの子の書いたものを。最後まで」
王妃の手には、断罪録の原本があった。四行の記載。四本の訂正線。余白の、細かい根拠の字。
「いかがでした」
フレデリカが訊いた。
王妃は、原本に目を落とす。長いこと、そうしている。
「字が、下手ね」
その声は、少し笑っているようで、少し泣いているようでもあった。
「あの子の字。わたくし、ちゃんと見たことがなかったの。いつも、誰かが代わりに書いていたから。──こんなに、下手だったのね」
王妃は、原本を函に戻した。丁寧に、元の順番どおりに。断罪録。書式十七番の申立書。国王の裁定書。
それから、立ち上がった。
「フレデリカ。この函は、あなたにお譲りします」
「ゲルトルート様」
「わたくしは、また来ます。ひとりで。あの子の字を読みに」
王妃は、アデライドのほうを見た。何か言いかけて、やめる。そのまま、侍女を連れて前室を出ていった。
◇
フレデリカは、輿の上から函を覗きこんだ。
アデライドが、一枚ずつ取り出して見せる。
断罪録の原本。四行の記載と、四本の訂正線。
書式十七番の申立書。窓口の受領印。手数料、銀貨三枚。
国王の裁定書。これを認める、の一行と、玉璽。
「これが、あなたの復讐」
母が言った。
「はい」
「殿下がご自分で署名なさった紙と、あなたが銀貨三枚で出した紙が、百年、同じ棚に並ぶ」
「はい」
フレデリカは、しばらく函の中を見ていた。
「……ずいぶん、地味ね」
「窓口の値段ですので」
母は、声を立てて笑った。
笑って、咳きこんだ。アデライドが背中をさすると、母はその手を取った。骨の形がそのままわかる手だった。春よりは、少しだけ温かい。北の咳止めの草が、効いているのかもしれなかった。
「いい棚ね」
母は、そう言った。
「あなたが三百人の前で黙って礼をした日から、ずっと、どんな顔をして見ればいいのかわからなかった。──いい棚だわ。これなら、百年でも見ていられる」
◇
屋敷に戻ったのは、夕暮れだった。
輿を下ろし、母を寝台に戻し、父が書斎に引き上げたあとで、一通の手紙が届いた。
封蝋に、王太子の紋。
中には、便箋が一枚。少年の字で、一行だけ。
──読みました。四度。
アデライドは、その一行を読んだ。
一度。
それで、足りた。
便箋を畳んで、書き物机の抽斗にしまう。書式十七番の束の隣に。もう、余りは一枚もない。明日、記録院の窓口でまたもらってこなければならない。
そのとき、ハンナが扉を叩いた。
いつもの声だった。棘も、困惑も、慎重さもない。この夏のあいだに、すっかり聞き慣れてしまった声だった。
「お嬢様。裏口に、お客様です」
「どなた」
「わかりません。名乗られないので」
ハンナは、少しだけ笑った。
「でも、銀貨を三枚、握ってらっしゃいます」
アデライドは、立ち上がった。
父の書斎では、もう燭台に火が足されていた。
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