第22話 白百合の講
ハンナが茶器を割ったのは、秋のはじめの朝だった。
十四の年からアデライドに仕えて、六年。この侍女が皿一枚でも落としたところを、アデライドは見たことがない。盆の上で揺れる湯の器を、どんなに急いでいても一滴もこぼさずに運ぶ娘である。
その朝は、寝室の扉を開けたところで、盆ごと取り落とした。
「申し訳ございません」
ハンナは床に膝をつき、割れた器の欠片を拾いはじめた。素手で。指先が切れて、血が滲んでいる。それでも、拾う手を止めない。
「ハンナ。手を止めなさい」
アデライドは寝台から降り、侍女の手首をつかんだ。
冷たい手だった。
「何が、ございましたの」
ハンナは、しばらく答えなかった。唇を噛んで、床の欠片を見つめている。
「……お嬢様。あたし、お嬢様の裏口のお客様に、なってもいいですか」
◇
ハンナの家は、王都の東区で洗濯屋をしている。
母のマルガが一人で切り盛りする、小さな店だ。父は、ハンナが十の年に亡くなっている。ハンナが侯爵家に奉公に上がったのは、給金を母に送るためだった。
「春に、隣のパン屋のおばさんが、母さんを茶会に誘ったんです」
父の書斎の椅子に、ハンナは浅く座っていた。指先には、アデライドが巻いた布が巻かれている。
「白百合の講、っていう集まりで。子爵夫人さまが開いてる、上品な会だって。入会金は、銀貨二枚。入ると、南の国の香油を、講の値で分けてもらえる」
ハンナは、前掛けのポケットから、小さな硝子の瓶を出した。親指ほどの大きさで、蓋に白い百合の絵が描いてある。
アデライドは蓋を開けて、匂いを嗅いだ。
薄い。
「香油を売って儲けるんじゃないんです。香油を売るのは、おまけみたいなものだって」
「おまけ」
「本当の儲けは、お友達を講に誘うこと。誘ったお友達が講から香油を買うたびに、その何分かが、割り戻しで入ってくる。そのお友達がまたお友達を誘えば、その人たちが買う分からも。──下に人が増えれば増えるほど、毎月、黙っていても割り戻しが入ってくるって」
「人を誘って、割り戻しを受け取る」
「はい。それで」
ハンナの声が、少し細くなった。
「毎月、香油を十瓶買わないと、会員の資格がなくなるんです」
◇
十瓶で、銀貨五枚。
東区の小さな洗濯屋にとって、月に銀貨五枚は、ひと月の稼ぎの半分に近い。
「母さんも、最初は十瓶を近所に売ろうとしたんです。でも、講の値より高くは売れないし、安く売ったら損になる。二本しか売れませんでした」
「香油では、儲からない」
「はい。そしたら、パン屋のおばさんに言われたんです。売ろうとするから苦しいんだ、誘いなさい、って。誘った人が毎月十瓶買えば、その割り戻しで、自分の十瓶の代がまかなえるからって」
売れない香油が、棚に溜まっていく。
それでも、毎月十瓶を買わなければならない。棚の瓶を減らすには、下に人を増やすしかない。
「やめればいいじゃないか、って、あたし言ったんです」
ハンナは、膝の上で両手を握りしめた。
「でも、母さん、向かいの靴直しのおばさんと、裏の荷車引きのおじさんを、講に誘っちゃってたんです。母さんが資格をなくしたら、二人は、母さんより上の人の下に移るって。母さんから二人を取り上げて、上の人が割り戻しをもらうって。──それに、母さんが先にやめたら、誘った二人に顔向けできないって」
「靴直しの方と、荷車引きの方は」
「二人とも、毎月十瓶、買ってます。売れないのに。荷車引きのおじさんは、仕入れの金貸しから借りて」
ハンナの目から、涙が一粒落ちた。
「このあいだ、荷車引きのおじさんが、店の前で母さんに怒鳴ったんです。おまえが誘ったんだろう、って。──母さん、あれから店を開けてないんです。棚に、売れない香油が、百本近く並んでるのに」
◇
ハンナは、上着の内側から、折り畳んだ紙を出した。
マルガの約定書の控えだった。
──白百合の講の会員は、講より香油を、講の値にて購うことを得。
──会員が講に新たな会員を紹介したときは、講は、紹介された会員の購いの額に応じ、紹介した会員に割り戻しを渡す。
──購いたる香油は、これを返さず。
末尾に、マルガの署名。講の元締めとして、セラフィーナ・フォン・リンデンの署名。
アデライドは、約定書を二度読んだ。
「毎月十瓶、とは、どこにも書いてございませんね」
「……はい」
「購うことを得。買ってもよい、と書いてあるだけです。買わなければならない、とは書いていない」
「でも、母さんは言われたんです。講の上の人に。毎月十瓶買わないと、資格がなくなるって」
「言われた、ですね」
アデライドは、約定書を卓の上に置いた。
書斎の奥で、父が口を開いた。
「香油を売るのも、紹介に割り戻しを払うのも、どこの商会でもやっていることだ。高い値で売ったと言っても、買った者が署名している。毎月買えと言われたと言っても、紙には書いていない。──紙がない以上、おまえの手は届かんぞ」
「はい」
アデライドは、香油の小瓶を手に取った。
ひとつだけ、引っかかることがあった。
「お父様。この講は、毎月、同じ者に、同じ品を売っております」
「そうだな」
「商会法に、定期の売買の定めがございませんでしたか」
父が、少し眉を上げた。
「……あるな。古い条文だ。月々に物を売る約束は、記録院に登記せねばならん。買い手は、いつでも約束を解いて、使っておらん品を返し、代を取り戻すことができる。月々に届く品で、借金を抱える者が出たときに作られた条文だったはずだ」
「講は、その登記をしておりますか」
「しておらんだろうな」
父は、約定書を顎で示した。
「登記をせずに済むように、毎月とは書いておらんのだ。買ってもよい、と書いてある。毎月買っているのは、会員が好きで買っているだけ。形のうえでは、定期の売買ではない」
アデライドは、黙って約定書を見つめていた。
この女は、わかっている。
毎月買わせたいが、毎月買えと書けば、法が買い手に逃げ道を与える。だから、紙には書かない。口で言わせる。上の者から、下の者へ。
◇
ハンナは、前掛けのポケットの奥から、布の包みを取り出した。六年、侯爵家で働いて、母に仕送りをした残りを、少しずつ貯めてきたものだという。
銀貨が、三枚。
「お嬢様の、裏口のお客様に、なってもいいですか」
同じ言葉を、ハンナはもう一度言った。
アデライドは、その銀貨を受け取った。
「あなたは、裏口から来たのではございません。わたくしの寝室の扉から、盆を落としながら来たのです」
「……申し訳ございません」
「謝ることでは、ございません」
◇
その日の午後、アデライドは記録院で、白百合の講の登記の写しを取った。
商会としての登記。目的の欄には、南方産香油の販売、とある。元締め、セラフィーナ・フォン・リンデン。リンデン子爵家の未亡人。
定期の売買の登記は、索引のどこにもなかった。
屋敷に戻ると、アデライド宛ての封書が一通届いていた。
上質な白い紙に、百合の透かし。封蝋にも、百合の紋。
──ヴァイセンブルク侯爵令嬢さま。
──この秋の白百合の茶会に、ぜひお越しくださいませ。
──ご令嬢の、記録院の窓口でのお働きは、わたくしども講の者も、深く敬っております。紙を大切になさる方は、わたくしどもの講の、よきお友達になってくださると信じております。
──セラフィーナ・フォン・リンデン。
ハンナが、封書を覗きこんで、息を呑んだ。
「お嬢様の名前を、使う気です」
「そうでしょうね」
「ヴァイセンブルクの令嬢が来た、って。それだけで、また何十人も入ります」
アデライドは、招待状を手に取った。
約定書には、毎月とは書かれていない。書かれているのは、どこかにある。上の者が下の者に、毎月十瓶と言わせているのなら、上の者は、それを誰かから聞いているはずだ。
口で伝えるだけでは、何百人もの会員に、同じ決まりを守らせることはできない。
「ハンナ」
「はい」
「お返事を書きます。紙とペンを」
「……行くんですか」
「ええ」
アデライドは、招待状を卓に置いた。
「毎月十瓶という決まりが、どこかの紙に書いてあるはずです。──外の者には、見せない紙に」
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