第23話 茶会
リンデン子爵家の屋敷は、王都の西の丘にあった。
庭じゅうに白い百合が植えられている。秋だというのに、温室で育てた花を鉢ごと運び出して並べたのだろう。甘い匂いが、門をくぐった瞬間から鼻をついた。香油の小瓶の薄い匂いとは、比べものにならない。
大広間には、五十人ほどが集まっていた。
貴族の奥方もいれば、商家の女将もいる。職人の妻らしい、日に焼けた手の女もいた。誰もが胸元に百合の飾りを下げている。飾りの色が、三つあった。白と、銀と、金。
白い百合を下げた者が、いちばん多い。銀はその半分もいない。金の百合を下げているのは、大広間の奥の、窓際の椅子に座った数人だけだった。
「ヴァイセンブルク嬢」
人垣の向こうから、声がかかった。
セラフィーナ・フォン・リンデンは、四十に届くか届かないかの、柔らかな顔立ちの女だった。白い衣装に、金の百合の髪飾り。笑うと目尻が下がり、誰にでも昔からの友人のような顔を向ける。
「来てくださったのね。嬉しいわ」
子爵夫人は、アデライドの両手を取った。温かい手だった。
「あなたのことは、ずっと気にかけていたの。あの夜会のこと。お母様のこと。──一人で、よく頑張ってこられたわね」
◇
茶会は、話を聞く会だった。
大広間の正面に小さな台が置かれ、会員が一人ずつ立って話をする。夫人は台の脇の椅子に座り、にこやかにそれを聞いている。
最初に立ったのは、金の百合を下げた仕立て屋の女将だった。
「わたしは、二年前に講に入りました。はじめは香油を売り歩きましたけれど、一瓶も儲かりませんでした。それで、お友達を誘うようになったら、そのお友達がまたお友達を誘ってくださって。──今では、下に八十人の方がいらっしゃいます。皆さまが毎月お買いになる香油の割り戻しで、この夏、店の二階を建て増しいたしました」
拍手が起きた。
次に立ったのは、銀の百合の男爵夫人。
「わたくしは、去年の秋に。はじめは香油を売ろうとして、苦労いたしました。売るより誘うほうがいいと、金の百合の方に教わって。あきらめずにお友達を誘いつづけて、ようやく銀になりましたの。金の百合まで、あと少し」
また、拍手。
三人目、四人目。誰もが、割り戻しで暮らしが楽になった話をした。香油が売れて儲かった、と話した者は、一人もいない。嘘をついている顔ではない。本当に、楽になったのだろう。
アデライドは、拍手をしながら、台に立つ者たちの胸元を見ていた。
金。銀。金。銀。
台に立つのは、白い百合を下げていない者ばかりだった。
香油は、講の外の誰にも売れていない。会員が講から買い、会員の棚に積まれるだけだ。
会員の儲けは、香油を売ることではない。下に会員を増やし、その会員が毎月買う香油の割り戻しを受け取ること。それだけである。上の者は、下の者の割り戻しで潤う。下の者は、もっと下の者を誘わなければ、自分の十瓶の代すらまかなえない。誘われた者は、また誘う。香油を売る講の顔をして、人が人を連ねていく。
連鎖講。
アデライドは、胸のなかでその名を呼んだ。
そして、どの色の百合を下げた者が毎月いくら買っても、その香油を仕入れて売っているのは、元締め一人だけだった。
◇
「白百合の講は、何も強いません」
子爵夫人が、椅子から立ち上がり、台の上に上がった。
「香油を買うのも、お友達を誘うのも、皆さまのお好きなように。香油を売り歩いて苦労なさる必要はありませんのよ。講の香油を気に入ってくださるお友達を、お誘いになればいいの。お友達がお買いになるたびに、割り戻しが届きますから。──ただ、講を信じて続けてくださる方には、必ず、道が開けます。白から銀へ、銀から金へ」
夫人は、両手を胸の前で組んだ。
「今は少し苦しい方も、いらっしゃるかもしれない。棚に、香油が余っている方も。でも、それは、あきらめずに続けた方だけが通る道なの。金の百合の皆さまも、最初はそうだったのよ」
大きな拍手が起きた。
アデライドの隣で、職人の妻らしい女が、泣きながら手を叩いていた。胸元の百合は、白い。
この女の棚にも、売れない香油が並んでいるのだろう。
◇
茶会が終わる頃、アデライドは夫人のそばへ行った。
「夫人。ひとつ、伺ってもよろしいですか」
「なんでも」
「会員になりましたら、毎月、何瓶ほどお求めすればよろしいのでしょう」
夫人は、にこやかに首をかしげた。
「お好きなだけ。講は、何も強いませんのよ」
一瞬の迷いもない答えだった。
アデライドは、夫人の顔を見た。笑っている。温かい目をしている。──そして、紙に書けないことを、決して口にしない女の目だった。
「では、白から銀へは、どうすれば」
「たくさんお買いになって、たくさんお友達を誘ってくださった方が、銀になります。銀から金も、同じ。──細かいことは、上がってからのお楽しみ」
夫人は、窓際の椅子に座る金の百合の者たちに、ちらりと目をやった。
茶会の客が帰りはじめると、金の百合を下げた数人が、目立たぬように大広間の奥の扉へ向かっていく。扉の上に、金の百合の彫り物がある。
扉が開き、閉じた。
白い百合も、銀の百合も、その扉には近づかなかった。
◇
「入会させていただきます」
アデライドがそう言うと、夫人の目が輝いた。
書記が、約定書と会員証を持ってくる。マルガが署名したのと、同じ文面。購うことを得。割り戻しを渡す。返さず。
アデライドは、銀貨を二枚、卓に置いた。
約定書に、署名する。
読んだうえでの、署名だった。
「それから、香油を」
アデライドは言った。
「百瓶、お願いいたします。毎月」
夫人の手が、止まった。
書記が、ペンを落としかけた。
「……百瓶」
「わたくしの知り合いの方々に、お配りしたいのです。妃教育の間で一緒だった令嬢方や、王妃様付きの女官の方々に。──それだけ買えば、銀にも、金にも、早く上がれますでしょう」
夫人は、しばらくアデライドを見ていた。
それから、今日いちばん柔らかな顔で笑った。
「あなたなら、特別に。──半年はかかるところを、三月で」
夫人は、白い百合の飾りをアデライドの胸元に下げてやりながら、大広間に残った客たちに聞こえる声で言った。
「皆さま。ヴァイセンブルク侯爵令嬢が、わたくしどもの講にお入りくださいました。それも、毎月百瓶」
◇
百瓶の代は、銀貨五十枚だった。
父は、支払いの証文に署名しながら、長いこと黙っていた。
「わしの金だぞ」
「存じております」
「この銀貨五十枚で、リンデンの女が儲かるのだぞ。香油の仕入れがいくらか、わしは知らんが、あの匂いの薄さなら、銅貨の値だろう。──毎月、あの女に銀貨を貢ぐことになる」
「三月だけです」
「三月で、銀貨百五十枚だ」
父は、ペンを置いた。
「……金の百合の扉の向こうに、それだけの紙があるのだな」
「あるはずです」
「なかったら」
「なかったら、わたくしが愚かだったということです」
父は、ふん、と鼻を鳴らした。
翌日、ヴァイセンブルク邸の裏の物置に、香油の木箱が運びこまれた。百瓶。白い百合の蓋が、箱の中でずらりと並んでいる。
◇
噂は、三日のうちに王都じゅうに広まった。
記録院の窓口で王太子を落とした侯爵令嬢が、白百合の講に入った。それも、毎月百瓶。あの紙に厳しい令嬢がそれだけ買うのなら、講の香油は本物だ。
講の入会者は、ひと月で百人増えた。クラリッサが、女官のあいだの噂として、そう知らせてくる。
月の終わりの夕方、ハンナが屋敷の裏口から戻ってきた。
母の様子を見に、東区へ行っていたのである。
ハンナは、アデライドの寝室の扉を、ノックもせずに開けた。
「お嬢様」
声が、震えていた。
「うちの通りの、魚屋のおじいさんが、講に入りました」
アデライドは、書き物の手を止めた。
「ヴァイセンブルクの令嬢が毎月百瓶も買うなら、香油はきっと値打ちものだって。孫の嫁入りの支度金を崩して、十瓶。──誘ったのは、靴直しのおばさんです。おばさんは、やっと一人誘えたって、泣いて喜んでました。これで少しは割り戻しが入るって」
「ハンナ」
「来月も、再来月も、おじいさんは十瓶ずつ買うんです。魚屋に、香油を買う客なんか来ないのに」
ハンナは、扉の前に立ったまま、アデライドを見ていた。
六年、一度もしたことのない目だった。
「あたし、お嬢様に、止めてほしくてお願いしたんです。広げてほしかったんじゃ、ありません」
アデライドは、何も言えなかった。
言い訳なら、いくつでも思いつく。金の百合の扉の向こうへ入るには、上がるしかない。上がるには、買うしかない。
けれど、そのどれも、魚屋の老人の支度金を返しはしない。
「……申し訳ございません」
ハンナはそう言って、扉を閉めた。
足音が、廊下を遠ざかっていく。
アデライドは、窓から裏の物置を見下ろした。
香油の木箱が、ひと月分。来月には、もうひと月分が届く。
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