第24話 内規
ハンナは、あれから必要なことしか喋らなくなった。
湯を運ぶ。帳を開ける。衣装を整える。一滴もこぼさず、一つも落とさない。いつもどおりの手順で、いつもどおりの手つきで、ただ、一言も余計なことを言わない。
六年、毎朝、何かしら喋っていた侍女が、黙っている。茶器を割られるより、ずっと堪えた。
ふた月目の香油の木箱が物置に運びこまれた日、アデライドは母の寝室へ行った。
◇
「ハンナに、嫌われたままね」
フレデリカは、寝台の上で、アデライドの顔を見るなりそう言った。
「おわかりになりますか」
「湯を運んでくるとき、あの子が何も喋らないもの。ふた月もよ」
アデライドは、椅子に座った。
「わたくしが百瓶買うたびに、講に人が入ります。魚屋のおじいさんは、今月も十瓶買ったそうです。孫の支度金は、もう半分もないと」
「知っています」
「金の百合の扉の向こうに入るには、上がるしかございません。上がるには、買うしかない。ですが」
「ですが、あなたが買うたびに、あの夫人が儲かって、東区の棚に香油が増える」
「……はい」
母は、しばらく黙っていた。
「あなたは、扉の向こうの紙を取るために入ったのでしょう」
「はい」
「なら、早く取りなさい」
フレデリカは言った。
「言い訳を考える暇があったら、扉を開ける算段をなさい。あなたがぐずぐずしているあいだにも、あなたの名前で、東区の棚に瓶が並んでいくのですよ」
アデライドは、顔を上げた。
「お母様は、わたくしが父親似だと仰いますけれど」
「なんです」
「今のお言葉は、お母様に似たいと思いました」
「褒めていません」
母は目を閉じた。口の端が、少しだけ上がっていた。
◇
三月目の終わりに、アデライドの胸元の百合が、金に替わった。
夫人が、自らの手で付け替えた。大広間の茶会の、皆の前で。拍手が、長いこと鳴りやまなかった。
茶会が終わると、夫人はアデライドの腕を取り、大広間の奥の扉へ導いた。
扉の上の、金の百合の彫り物。
扉が開き、閉じた。
◇
金の百合の間は、思っていたより狭かった。
楕円の卓が一つ。椅子が十二。窓はなく、壁の燭台だけが灯っている。百合の匂いが、大広間よりもさらに濃い。
卓を囲んでいるのは、茶会の台で話をしていた者たちだった。仕立て屋の女将。二年前に入ったという商家の女将。そのほかに、アデライドの知らない顔が数人。
「皆さま。新しいお仲間よ」
夫人が言うと、金の百合の者たちは、そろって会釈した。
夫人は上座に座り、卓の上に、革表紙の薄い冊子を置いた。
「新しい方がいらしたときは、はじめに、これを読むことにしているの」
冊子の表に、金の箔で、白百合の講・内規、とあった。
「金の百合の皆さまは、講の心臓ですもの。心臓が、決まりの理由を知らずに動いていては困るわ。理由を知らずに守る決まりは、いつか誰かが破るものよ」
夫人は、冊子を開いて、読みはじめた。
◇
「一。白の会員は、月に香油十瓶を購うべし。銀の会員は、三十瓶。金の会員は、百瓶。購わざる者は、その月をもって資格を失い、その下の会員は、ことごとく一つ上の会員に移る」
アデライドは、手を膝の上で組んだまま、聞いていた。
マルガが資格を失えば、靴直しの女房と荷車引きの男は、マルガの上の者に移る。ハンナが言っていたとおりだった。
「二。会員が講を去らんとするときは、上の会員これを引き留むべし。余りたる香油は、なお売れるものと説き、講を去れば下の会員を失うことを説くべし」
仕立て屋の女将が、目を伏せた。
「三」
夫人は、ほんの少しだけ声を落とした。
「月々の購いの定めは、約定書に記すべからず。上の会員より下の会員へ、口をもって伝うべし。──書き記さば、商会法にいう定期の売買となり、記録院の登記を要し、買い手に、いつにても約を解き品を返すことを許すゆえなり」
部屋が、静まっていた。
燭台の火が、わずかに揺れる。
「四。本内規は、金の百合の会員のほかに、見せるべからず」
夫人は、冊子を閉じた。
「おわかりになったかしら」
穏やかな声だった。
「講は、何も強いていないの。約定書には、買ってもよい、としか書いていない。毎月の十瓶は、上の方から下の方への、お願い。──紙に書けば、法が講を縛る。だから、書かない。皆さまにも、決して書かないでいただきたいの。下の方々へは、口で」
夫人は、にっこりと笑った。
「講を守るためよ。講が続けば、皆さまの下の方々も、いつか必ず、白から銀へ、金へ上がれるのですもの」
◇
書記が、紙の束を持って入ってきた。
一枚は、名簿だった。金の百合の者たちの名が並び、その横に、署名の欄がある。
──右の者、白百合の講の内規を承知し、下の会員をしてこれを守らしむることを約す。
「これに、ご署名を」
夫人が言った。
「それから、こちらは控え。内規の写しよ。下の方々に守らせるのに、ご自分でもときどき読み返していただかないとね。──外へは、決して出さないで」
書記が、内規の写しを一部ずつ配っていく。一枚ごとに、夫人の署名と、講の印が押されていた。金の百合の者が、下の会員に「これは元締めの決まりだ」と示すための控えなのだろう。
アデライドの前にも、一部が置かれた。
白百合の講・内規。一から四まで。三の条の、書き記さば、の一行も。
末尾に、セラフィーナ・フォン・リンデンの署名と、講の印。
アデライドは、名簿に目を落とした。
内規を承知し、下の会員をしてこれを守らしむることを約す。
読んだうえで、署名した。
署名しながら、アデライドは、この三月で物置に積み上がった木箱のことを考えていた。三百瓶。銀貨百五十枚。父の金で夫人を儲けさせ、東区の棚に瓶を増やして、ようやく、この一枚を手にしたのだ。
◇
金の百合の間を出て、廊下を歩いていると、後ろから声をかけられた。
「侯爵令嬢さま」
仕立て屋の女将だった。
金の百合を胸に下げたまま、廊下の暗がりで、落ち着かなげに周りを見回している。
「……令嬢さまは、本当に、百瓶を配っておられるので」
「いいえ。物置に積んでございます」
女将は、少し驚いた顔をした。それから、力なく笑った。
「わたしも、です」
「金の百合の方が」
「金は、月に百瓶です。わたしの下の八十人が買う割り戻しで、月にいくらか入る。でも、百瓶買わなければ、金から落ちる。落ちれば、下の八十人は、わたしの上の方に移る。──二階を建て増したのは、本当です。でも、その二階は、今、香油の箱で埋まってます」
女将は、自分の胸の金の百合に、指で触れた。
「香油は、南方産じゃありません。王都の北の油屋が、菜種油に安い香りをつけて、瓶に詰めてるんです。一度、仕入れに紛れて見に行ったことがあります。一瓶、銅貨三枚だそうです」
アデライドは、黙って聞いていた。
「講の値は、一瓶、銀貨半枚。──夫人さまは、白の会員にも、銀にも、金にも、同じだけ売ってるんです。下の者がいくら苦しくても、上の者がいくら苦しくても、毎月、瓶は売れる。儲かってるのは、夫人さまだけです」
「なぜ、わたくしに」
「令嬢さまは、記録院の窓口の方でしょう」
女将は、声を落とした。
「わたし、金の百合をやめたいんです。でも、やめたら、下の八十人に顔向けできない。わたしが誘った人たちなんです。──あの人たちの棚にも、香油が並んでるんです」
◇
二日後、アデライドは東区の洗濯屋の前に立っていた。
店の戸は、閉まっている。裏へ回ると、干し場でハンナが洗濯物を取りこんでいた。休みの日に、母の店を手伝いに来ているのだ。
店の奥の棚が、開いた勝手口から見えた。白い百合の蓋が、壁一面に並んでいる。
ハンナは、アデライドに気づいて、手を止めた。何も言わない。
アデライドは、一枚の紙を差し出した。
白百合の講の内規の控え。夫人の署名と、講の印のあるもの。
「三の条を、お読みなさい」
ハンナは、しばらく紙を受け取らなかった。それから、濡れた手を前掛けで拭いて、受け取った。
読んだ。唇が、声を出さずに動いている。
読み終えて、眉を寄せた。
「……難しくて、わかりません」
「では、わたくしの言葉で申します」
アデライドは、控えの三の条を指で押さえた。
「ここには、こう書いてございます。──毎月十瓶買え、という決まりは、約定書に書いてはいけない。書けば、会員はいつでも講をやめられるようになり、残った香油を返してお金を取り戻せるようになってしまうから、と」
「……え」
「この国の商会法には、古い決まりがございます。毎月決まった品を買わせる約束をしたら、買う側は、いつでもやめてよい。使っていない品は、返してよい。返せば、払ったお金は戻ってくる」
「母さんみたいな人を、助けるための決まり」
「はい。夫人は、その決まりをご存じでした。ですから、毎月十瓶とは、約定書に一行も書かなかった。書かなければ、会員が好きで買っていることになります。好きで買ったものは、返せません」
ハンナの手が、紙を握ったまま震えていた。
「知ってて、書かなかったんだ。書いたら、母さんが香油を返せるって、知ってて」
「はい」
「でも、これ」
「ええ。書かなかった理由を、ご自分で書いてしまわれた」
アデライドは、控えの末尾の署名と印を示した。
「一の条には、毎月十瓶買わなければ資格を失う、とございます。毎月買うことを決めていたのは、講のほうです。会員が好きで買っていたのではございません。──それなら、商会法の決まりが使えます」
「母さんは」
「講をやめて、棚の香油を返せば、払ったお金が戻ります」
ハンナは、勝手口の奥の棚を振り返った。
白い百合の蓋が、壁一面に並んでいる。
「……あれ、全部」
「一本も、使っていらっしゃらないのでしょう」
ハンナは、長いこと棚を見ていた。
それから、アデライドのほうに向き直った。
「お嬢様」
「はい」
「あたし、まだ怒ってますから」
「存じております」
「でも、母さんの棚、全部返したら」
ハンナは、内規の控えを、前掛けのポケットに押しこんだ。
「そしたら、少しだけ、喋ります」
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