第25話 返品
王都の裁き所は、商いの揉めごとを扱う小さな法廷だった。
石造りの天井の低い部屋に、判事が一人と、書記が一人。訴え出た者と、訴えられた者が、向かい合って座る。
訴え出た者の席には、洗濯屋のマルガが座っていた。
その後ろに、靴直しの女房と、荷車引きの男と、魚屋の老人。東区の通りの者たちが、ハンナに連れられて、夜明け前から並んでいた。訴えの中身は、みな同じ。商会法の定期の売買の条により、講との約を解き、使っていない香油を返して、代を取り戻したい。
訴えられた者の席には、白百合の講の代言人ホルストと、元締めのセラフィーナ・フォン・リンデン。
夫人は、白い衣装に金の百合の髪飾りをつけて、静かに座っていた。茶会の台の脇に座っていたときと、同じ顔である。
傍聴の席に、アデライドがいた。胸元には、まだ金の百合を下げている。
◇
「講の側の言い分を」
判事が言った。
ホルストは、立ち上がって約定書の写しを掲げた。
「白百合の講の約定書でございます。会員は、講より香油を、講の値にて購うことを得。──購うことを得、でございます。買ってもよい、と書いてあるのみ。毎月買え、とはどこにも書いてございません」
声は落ち着いていた。
「会員の皆さまが毎月香油をお求めになったのは、ご自分のお考えによるもの。講は、何も強いておりません。定期の売買ではございませんので、商会法の定期の売買の条は当たりません。──また、約定書には、購いたる香油は、これを返さず、とございます。皆さま、読んだうえでご署名なさいました」
判事は、マルガのほうを見た。
「訴え出た側。毎月十瓶を買わねば資格を失う、と言われたのは、誰にか」
マルガは、膝の上で両手を握りしめた。
「パン屋の、アンネさんに。アンネさんは、上の人に言われたって」
「その上の者は」
「わかりません」
「紙には」
「……書いてありません」
ホルストが、わずかに頷いた。
口で伝えられた決まりは、口の数だけ散らばっている。誰が最初に言ったのか、誰にもたどれない。夫人は、それを知っていて、口で伝えさせてきたのだ。
「傍聴の方」
判事が、アデライドを見た。
「ヴァイセンブルク嬢。この件で、裁き所に書面を出しておいでですね」
「はい」
アデライドは、立ち上がった。
◇
「白百合の講の、内規の控えでございます」
アデライドは、一枚の紙を判事の前に置いた。
夫人の署名と、講の印。一から四の条。
「講の元締めが、金の百合の会員に、下の会員に守らせるために配ったものです。わたくしも金の百合の会員として、夫人ご自身の手から受け取りました」
判事は、控えを読んだ。
一の条で、手が止まった。白は月に十瓶、銀は三十、金は百。購わざる者は資格を失う。
三の条で、判事は顔を上げた。
「……月々の購いの定めは、約定書に記すべからず。書き記さば、商会法にいう定期の売買となり、記録院の登記を要し、買い手に、いつにても約を解き品を返すことを許すゆえなり」
判事は、その一行を声に出して読んだ。
部屋の後ろで、マルガが口を押さえた。
「異議がございます」
ホルストが、すぐに立ち上がった。
「その控えが本物であるという証が、どこにございましょう。ヴァイセンブルク嬢は、講の内規の四の条に背いて、金の百合の外へ内規を出された。そのような方が差し出す紙を、そのまま信じるわけには」
「では、もう一通」
傍聴の席で、別の声がした。
仕立て屋の女将である。
金の百合を胸に下げたまま、立ち上がっている。手に、一枚の紙を握っている。
「わたしも、金の百合です。二年前に、夫人さまの手から、同じものをいただきました」
女将は、紙を判事の前に置いた。
アデライドの控えと、一字一句同じ内規。同じ署名。同じ印。ただ、日付だけが二年前だった。
「わたしの下に、八十人おります。この二年、口で伝えてきました。毎月十瓶、買わないと資格がなくなるって。わたしが言ったんです。八十人に」
女将の声が、震えた。
「わたしの二階は、香油の箱で埋まってます。八十人の棚も、きっと同じです。──もう、口で伝えるのは、やめます」
◇
判事は、二枚の控えを並べた。
それから、夫人を見た。
「リンデン子爵夫人。これは、あなたの書いたものか」
夫人は、しばらく二枚の紙を見ていた。
顔色は変わらない。柔らかな顔立ちのまま、静かに頷いた。
「わたくしが書きました」
「三の条の意味も、承知のうえで」
「ええ。講を守るためです」
夫人は、判事を見返した。
「毎月買うと約定書に書けば、会員はいつでもやめられるようになる。やめる人が出れば、その下の人たちも崩れる。講が崩れれば、今まで苦労して上がってきた方々が、みな損をする。──だから、書かなかったのです。皆さまのために」
「書かなかった、と申されるが」
判事は、控えを指で叩いた。
「書かなかったことを、書いておいでだ」
夫人の顔が、はじめて、わずかに揺れた。
「約定書に記すべからず、と。その理由まで、ご自分の手で。そして、ご自分の署名と印をつけて、金の百合の会員に配っておいでだ。──講は、毎月の購いを定めていた。約定書に記さなかったのは、会員に約を解かせぬため。それを、この紙が申している」
◇
裁きは、その場で下された。
白百合の講の毎月の購いは、講の定めによる定期の売買である。記録院の登記を欠く。約定書の、購いたる香油は返さず、の一行は、商会法の定期の売買の条に背くものとして、効を持たない。
会員は、いつにても講との約を解き、使っていない香油を返して、講の値で代を取り戻すことができる。
あわせて、講の商会登記の、南方産香油、の一語は、事実に違うものとして、記録院に訂正を申し送る。
ホルストは、判事の言葉を聞き終えると、深く一礼して、黙って席に戻った。
夫人は、最後まで背筋を伸ばして座っている。
ただ、法廷を出るとき、傍聴の席のアデライドの前で、一度だけ立ち止まった。
「わたくし、書かなかったのに」
小さな声だった。
「お書きになりました」
アデライドは答えた。
「書かないということを、書き記して、お配りになりました。──何百人もの方に、同じ決まりを守らせるには、紙が要りますもの。口だけでは、足りなかったのでございましょう」
夫人は、何も言わなかった。
金の百合の髪飾りを、指でそっと外す。そのまま、法廷を出ていった。
◇
翌日から、西の丘の屋敷に、荷車の列ができた。
荷台に積まれているのは、白い百合の蓋の小瓶だった。木箱に詰めたもの。籠に入れたもの。前掛けに包んだもの。東区から、西区から、北区から。
講の値で、一瓶、銀貨半枚。
銅貨三枚で仕入れた瓶を、銀貨半枚で買い戻す。夫人がこの三年で積み上げた差額が、瓶が一本戻るたびに、そのまま吐き出されていく。
百合の温室が、返された瓶で埋まっていく。温室に入りきらなくなると、庭の百合の花壇の上に、木箱が積まれていった。
ひと月のうちに、リンデン子爵家の屋敷は、西の丘の地所ごと売りに出された。
◇
すべてが戻ったわけではなかった。
売れずに困って、近所に銅貨で投げ売りした瓶。自分で使ってしまった瓶。そういう分は、返しようがない。靴直しの女房は、半分ほどしか戻らない。荷車引きの男は、金貸しへの利子の分が、どうしても残った。
それでも、洗濯屋の棚に並んでいた百本近い瓶は、一本残らず荷車に積まれて、西の丘へ運ばれていった。
魚屋の老人の瓶も、三月分、そっくり戻る。孫の嫁入りの支度金は、嫁入りの日に間に合った。
ヴァイセンブルク邸の裏の物置からも、三百瓶の木箱が運び出された。
「銀貨百五十枚」
戻ってきた銀貨を卓に並べて、父が言った。
「利子は、つかんのか」
「講の値で戻すと、判事様が」
「わしの金を三月も貸してやったのだぞ」
父は、ふん、と鼻を鳴らした。それから、銀貨を数えずに、袋ごと書斎の抽斗にしまった。
◇
王太子レオンハルトからの手紙は、ひと月ほどして届いた。
宰相ヴェルナーとともに、新しい令の案を起こしたのだという。
──連鎖販売令。
第一条の写しが、手紙に添えられていた。
──人を誘いて会員となし、その会員に月々品を購わしむる講は、月々の購いの定めを約定書に記し、記録院に登記すべし。会員は、いつにても約を解き、使わざる品を返して代を取り戻すことを得。
手紙の最後に、少年の字で一行。
──講の内規の三の条を、裏返して写しました。
アデライドは、その一行を読んで、少しだけ笑った。
◇
その夜、ハンナが湯を運んできた。
一滴もこぼさない。茶器を卓に置き、帳を引き、いつもどおりに一礼する。
それから、下がらずに、その場に立っていた。
「お嬢様」
「はい」
「母さんの棚、空っぽになりました」
「伺いました」
「空っぽの棚、はじめて見ました。母さん、棚を拭きながら、泣いてました」
ハンナは、前掛けのポケットから、何かを出した。
洗いざらしの布でくるんだ、小さな包み。
「お代は、あたしが払いましたけど、これは、母さんから。お代じゃないそうです」
包みを開くと、真っ白に洗い上げられた手巾が一枚、入っていた。四隅に、小さな百合の刺繍がある。
「香油の瓶の蓋に、白い糸が巻いてあったでしょう。返す前に、母さん、一本だけ残しておいて、その糸をほどいたんです。──もう二度と誘われないように、って」
アデライドは、手巾を手に取った。
百合の刺繍は、少し歪んでいる。洗濯屋の女将の、慣れない針目だった。
「ハンナ」
「はい」
「少しだけ、喋ると言いましたね」
「言いました」
ハンナは、息を吸った。
「魚屋のおじいさんの孫の嫁入り、すごくいい式だったそうです。花嫁さんの衣装は、仕立て屋の女将さんが縫ったんです。二階の香油の箱を全部返して、空いたところで。それから、靴直しのおばさんが、母さんの店に靴を直しに来て、母さんがおばさんの前掛けを洗ってあげて。それから、荷車引きのおじさんが」
「ハンナ」
「はい」
「少しだけ、ではございませんね」
ハンナは、三月ぶりに笑った。
「三月分です」
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