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婚約破棄は結構ですので、その断罪書にご署名をいただけますか 〜紙一枚で、片をつけます〜  作者: 桜野結


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第26話 申し入れ

三年が過ぎた。


 ヴァイセンブルク邸の前庭の敷石は、もう草に覆われて、どこが継ぎ目だったのかもわからない。庭師は新しく雇い入れたが、アデライドは前庭にだけは手を入れさせなかった。母の寝室の窓から見える場所だからだ。


 母のフレデリカは、今も寝台の上にいる。


 歩けないことに変わりはない。ただ、北の咳止めの草を煎じて飲むようになってから、冬を越すたびに少しずつ顔色がよくなった。この春は、窓辺の椅子まで運ばれて、半日座っていられる日もある。


 記録院の窓口は、二つになった。写しの請求だけを受ける窓口の主任は、ルーカスが務めている。


 ヴァイセンブルク邸の裏口には、今も、ときどき客が来る。


 銀貨を三枚、握って。


◇


 その朝、正門に王家の紋の馬車が止まった。


 先触れは、ない。御者のほかに供は一人だけで、降りてきたのは、背の高い若い男だった。


 応接間の扉を開けたところで、アデライドの足が止まる。


 三年前、廊下で呼び止められたときには、まだ少年の背丈しかなかった。今は、アデライドが見上げなければならない。肩幅が広くなり、声も低くなっている。ただ、笑わずに頷く癖だけは、変わっていなかった。


 王太子レオンハルト。十九歳。


「突然、申し訳ありません」


「いいえ。どうぞ、おかけくださいませ」


 レオンハルトは座らなかった。


 上着の内側から、封をした書状を一通取り出し、両手でアデライドに差し出した。封蝋に、王太子の紋。


「お読みください」


 アデライドは、書状を受け取ったまま、少しのあいだ動けなかった。


 お読みください。


 三年前に、自分がこの人に言った言葉だった。


◇


 婚約の申し入れ書だった。


 宮廷の書記の整った字で、型どおりの文面が並んでいる。王太子レオンハルトは、ヴァイセンブルク侯爵家の娘アデライドに、婚約を申し入れる。持参の定め。披露の日取り。婚礼の時期。


 六条までは、どこの王家の婚約書にもある決まり文句だった。


 七条目から、字が変わる。


 書記の字ではない。少し右に傾いた、力の入りすぎた字。中指の第二関節に、力が入りすぎる持ち方の字だった。父から兄へ、兄から弟へ受け継がれた癖。


 ──第七条。王太子は、いかなる紙にも、署名の前に、必ずこれを読む。読みてわからぬときは、妃に問う。


 ──第八条。妃は、王太子の代わりに読む者にあらず。王太子と妃は、おのおの自ら読み、おのおの自ら署名する。


 アデライドは、八条を二度読んだ。


 三度目は、読めなかった。字が、滲んで見えた。


◇


「三年前、お断りいたしました」


 ようやく、声が出た。


「存じています」


「理由を、申し上げませんでした」


「わかっていました」


 レオンハルトは、立ったまま言った。


「母上が、兄上の隣にあなたを選んだのは、兄上が読まなくて済むようにするためでした。あなたは八年、兄上の代わりに読んだ。──わたしの婚約者になれば、また同じことになると、お思いになったのでしょう。今度は、わたしの代わりに読むことになる、と」


 アデライドは、答えなかった。


 答える必要がなかった。そのとおりだったからだ。


「だから、八条を書きました」


 レオンハルトは、書状の八条を指で示した。


「あなたは、わたしの代わりに読む人ではありません。わたしも、あなたの代わりに読まない。それぞれが自分で読んで、それぞれが自分で署名する。──そういう婚約でなければ、あなたは受けてくださらないと思いました」


「この三年」


「読む稽古をしました」


 レオンハルトは、少しだけ口の端を上げた。


「勅令のあと、宰相に頼んで、宰相府の書類を毎日回してもらいました。わからないところは、全部、宰相に訊きました。宰相は、三日目で嫌な顔をしましたが、ひと月目からは、何も言わなくなりました」


「……ヴェルナー閣下が」


「王が署名する書類は、この国に山ほどあります。わたしは、それを全部、自分で読める王になりたかった。──あなたに、隣に立っていただくために。あなたが、わたしの代わりに読まなくて済むように」


◇


 アデライドは、書状を卓の上に置いた。


 窓の外で、前庭の草が風に揺れていた。三年前、四本、と母に報告したことを思い出す。今はもう、誰にも数えられない。


「お受けいたします」


 レオンハルトの肩から、目に見えて力が抜けた。


「ただし」


 アデライドは、書状の末尾の署名の欄を指で押さえた。王太子の署名の欄と、アデライドの署名の欄。どちらも、まだ空いている。


「署名は、披露の夜にいたしとうございます」


「披露の夜に」


「三年前、わたくしは、披露されるはずだった夜に、断罪されました。母は、娘が王太子妃として披露されるのを見に来て、娘が毒殺犯だと聞かされて、倒れました」


 アデライドは、レオンハルトを見た。


「母に、今度は最後まで見せたいのです。娘が、婚約書を読んで、署名するところを」


 レオンハルトは、しばらく黙っていた。


 それから、笑わずに頷いた。


「では、披露の夜に。──場所は」


「白鶴の間で」


 アデライドは、静かに言った。


「同じ広間で、同じ刻限に。九時の鐘で」


◇


 その夜、アデライドは母の寝室で、婚約の申し入れ書を広げていた。


 フレデリカは、窓辺の椅子に座らされていた。灯りを近づけて、七条と八条を、時間をかけて読んだ。


 読み終えて、書状を膝の上に置いた。


「あの方の字ね」


「はい」


「ユリウス殿下に、少し似ているわ」


「ご兄弟ですから」


「でも、読んだ人の字ね」


 母は、八条の行を、指でそっとなぞった。


「妃は、王太子の代わりに読む者にあらず。──ゲルトルート様が、これを読んだら、何とおっしゃるかしら」


「お母様」


「なんです」


「披露の夜会は、白鶴の間で開きます。九時の鐘で」


 母が、顔を上げた。


 アデライドは、母の手を取った。骨の形がそのままわかる手だ。三年前よりは、少しだけ温かい。


「お母様に、見ていただきたいのです。けれど、無理はなさらないでくださいませ。輿でお運びするにしても、夜会は長うございます。お身体に障れば」


「行きますよ」


 フレデリカは、遮った。


「三年前、わたくしは三日かけて身体を作って、頬に紅を入れて、あの広間へ行きました。娘の晴れ姿を見るために。──見られませんでした。最後まで」


 母の手に、力がこもった。


「今度は、三日では足りないわね。ひと月かけて作ります。歩けなくても、座っていることはできますから」


「お母様」


「母親の役を、させてちょうだい」


 三年前と、同じ言葉だった。


 アデライドは、何も言えない。母の手を両手で包んだまま、うつむいた。


 窓の外で、夜の草が揺れている。

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