第27話 白鶴の間
母は、ひと月かけて身体を作った。
医師は渋った。三年前と同じように。そして母は、三年前と同じように聞き入れなかった。水と薬と眠りに、北の咳止めの草を加えて、ひと月。窓辺の椅子に座っていられる時間を、一日ごとに少しずつ延ばしていく。
披露の三日前には、日が沈むまで座っていられるようになった。
「九時の鐘まで、もつかしら」
「無理をなさらないでくださいませ」
「無理をしに行くのですよ」
母は笑った。三年前と同じ言葉で、三年前より少しだけ血色のいい頬で。
◇
披露の夜、支度部屋の鏡の前で、アデライドは母を見ていた。
フレデリカは、輿に据えた椅子に座り、ハンナに髪を結わせている。輿を担ぐのは、父と古い御者と、フーゴが連れてきた工部の職人が二人。職人たちは、南庭の現場で日誌を書いていた男たちだった。
「三年前の夜会では、紅を入れてもらいましたね」
母が言った。
「はい」
「今夜は、要らないわ」
ハンナが、刷毛を持ったまま手を止めた。
「顔色は、自分で作りました。ひと月かけて」
鏡越しに、母の頬が見えた。紅を入れなくても、ほんの少しだけ赤い。
アデライドは、何も言えずに母の手を取った。
骨の形がわかる手だ。それでも、温かい。
◇
白鶴の間には、三百人が集まっていた。
王都の名門はほぼ揃い、地方の伯爵家も上がってきている。楽団が入り、給仕が銀盆を運び、大理石の柱のあいだで扇が揺れていた。
三年前と同じ広間。同じ柱。同じ天井。
ただ、人の顔は少しずつ違う。
クラリッサがいる。王妃付きの女官頭の補佐になって、今夜は女官たちを束ねていた。アデライドと目が合うと、ほんの少しだけ顎を上げてみせる。目を伏せない、という合図だった。
壁際に、記録院長とルーカスが並んでいる。書記の制服のまま、場違いな顔で。
貴賓席に、王と王妃。王妃ゲルトルートは、黒に近い紺の衣装である。母の輿が貴賓席の隣に下ろされると、王妃は一度だけ、母のほうへ首を傾けた。
宰相ヴェルナーは、三年前と同じ壁際に立っていた。
◇
アデライドは、慣れた足取りで人の輪を渡った。
三年前とは、挨拶の数が違う。目を伏せる者がいない。ヴァイセンブルクの娘が王太子妃になる、という噂は、ひと月前から王都じゅうに広まっていた。三年前に廊下ですれ違って目を伏せた令嬢たちが、今夜は列を作って挨拶に来る。
アデライドは、一人ずつに礼を返した。
許したわけではない。ただ、目を上げて来た者に、目を上げて返すことにしただけだ。
人の輪の外側に、目を上げずに立っている男がいた。
アイゼナハ伯爵。
三年前、近衛を退いたコンラートの父である。息子が社交界から締め出されてから、伯爵もほとんど夜会に顔を出さなくなっていた。今夜は、来ている。灰色の髭を整え、勲章を胸に下げて、柱の陰からアデライドを見ていた。
その脇に、薄い革の鞄を抱えた代言人が一人。
アデライドは、伯爵に目を留めた。伯爵も、目を逸らさなかった。
◇
九時の鐘が鳴った。
楽団の音が、途中で切れる。
指揮者が下がり、給仕が壁際へ寄る。人の流れが、ひとりでに二つに割れていく。今夜は、誰かが用意した動線ではなかった。王太子が広間の中央へ歩み出たから、三百人が自分で道を空けたのだ。
中央に、レオンハルトが立った。
書記が卓を出し、婚約書を広げる。羽根ペンが二本、インク壺の脇に並べられた。
「アデライド・フォン・ヴァイセンブルク」
レオンハルトの声は、天井の高い広間に、よく通った。兄のように張り上げてはいない。それでも、端まで届いた。
「婚約書を、お読みください」
アデライドは、扇を閉じて、一歩前へ出た。
三年前も、この同じ場所で、同じように一歩前へ出ている。
あのときは、理由を伺ってもよろしいでしょうか、と言った。
◇
「お待ちを」
声は、柱の陰からだった。
アイゼナハ伯爵が、人垣を割って歩み出ていた。代言人が、鞄を胸に抱えてその後ろに続く。
「王太子殿下。ご署名の前に、この広間の皆さまに、お聞かせしたい紙がございます」
レオンハルトが、眉を寄せた。
「伯爵。今夜は」
「公文書でございます」
伯爵は、穏やかに遮った。
「王家の婚約に関わる公文書を、王家の婚約の席で読み上げる。それを禁じる定めは、この国にはございますまい。──記録院の窓口で、銅貨二枚で写しを取ってまいりました。どなたでも取れる紙です」
代言人が、鞄から一枚の紙を取り出して、伯爵に渡した。
アデライドは、その紙を見た。
見覚えのある書式。見覚えのある四行。
伯爵は、紙を高く掲げた。
「三年前、この白鶴の間で読み上げられた、断罪録の写しでございます」
どよめきが、床を這うように広がった。
◇
「二月十四日。王宮南庭の東屋にて」
伯爵は、読みはじめた。
声は、ユリウスほど巧くない。それでも、三百人が黙っている広間では、端まで届いた。
「アデライド・フォン・ヴァイセンブルクは、ミーナ・ヴァルトに毒を混ぜた茶を供した。ミーナは三日、寝込んだ。侍女のケーテが、一部始終を見ている」
伯爵は、そこで紙を下ろした。
「訂正線が引いてある、と申される方もおられましょう」
穏やかな声のまま、伯爵は広間を見回した。
「ええ、引いてございます。四行すべてに。──誰が引かせたか。この方です。銀貨三枚の窓口で。王太子殿下を、ご自分の手で廃嫡に追いやられた方が、その弟君の妃になられる」
伯爵は、紙を書記の卓の上に置いた。婚約書の隣に。
「わたくしは、この方が毒を盛ったとは申しません。訂正線が引かれた以上、盛っていないのでございましょう。ただ、皆さまにお考えいただきたい」
広間が、静まっていた。
「この方は、気に入らぬ紙を、片端から直してこられた。婚姻届も、土地の原本も、商会の契約も、示談書も。──この方が王妃になれば、この国の紙は、すべてこの方の気に入るように直される。王の署名ある紙も、です。三年前、王の署名ある勅令の案を潰されたのも、この方だと、皆さまご存じでしょう」
ざわめきが起きた。三百人の、低いざわめき。
アイゼナハ伯爵の息子の示談書が、この方に直されたことを、知っている者もいる。知らない者もいる。知らない者の耳には、伯爵の言葉だけが届く。
「殿下」
伯爵は、レオンハルトに向き直った。
「この方は、殿下の代わりに、この国の紙を書き換えるおつもりですぞ。王家の婚約の席で申し上げるのは、忠義でございます」
◇
アデライドは、貴賓席を見なかった。
見なくても、わかっていた。三年前と同じように、母は今、娘が毒を盛ったという言葉を、三百人と一緒に聞いたのだ。
頭の芯が、氷を当てられたように冷たくなる。
それでいて、頭のもう半分は、恐ろしいほど正確に働いていた。
弁明の道筋を、三つ数える。
訂正線のことを言えば、ご自分で引かせたのでしょう、と言われる。直した紙が正しかったと言えば、ご自分で正しいと仰るのですね、と言われる。黙っていれば、認めたことになる。
この男は、三年前のユリウスとは違う。嘘は一つも言っていない。断罪録の四行は、確かにそう書いてある。訂正線を引かせたのも、確かにアデライドだ。
本当のことだけを並べて、三百人に、違う絵を見せている。
レオンハルトが、一歩前へ出ようとした。
アデライドは、扇の先で、その袖にそっと触れた。
レオンハルトが、振り返る。
「殿下が、わたくしの代わりにお答えになれば」
アデライドは、小さな声で言った。
「わたくしは、殿下の後ろに隠れた妃になります。──婚約書の八条を、もうお忘れですか」
レオンハルトは、唇を引き結んだ。
それから、ゆっくりと一歩下がった。
◇
広間の扉が、開いた。
三百人が、いっせいにそちらを振り返る。
扉のところに、旅装のままの小柄な女が立っていた。北の街道の土埃が、外套の裾に白く残っている。息を切らし、両手で封筒を一通、胸に抱えていた。
止めようとした門番を、ヴェルナーが手で制している。
女は、三百人の視線を浴びて、肩を跳ねさせた。三年前、この広間で、ユリウスの半歩後ろに立っていたときと同じように。
けれど、今夜は、うつむかなかった。
「……遅くなって、ごめんなさい」
ミーナが言った。
「五日の道を、四日で来ました。──殿下から、記録院長様に届けるように言われた紙です」
封筒の封蝋に、北方の小領の紋があった。
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