第28話 読んでから
記録院長は、壁際から歩み出て、ミーナの手から封筒を受け取った。
封蝋を確かめる。宛名を確かめる。それから、三百人の前で、平坦な声で言った。
「記録院長宛ての書状でございます。差出人は、ハイデ領主ユリウス殿。──中身は、断罪録の函に綴じ込む追記の申し出、と表書きにございます」
ざわめきが、広間を揺らした。
アイゼナハ伯爵が、眉を寄せる。
「院長。それは記録院の窓口で扱うべきもの。今宵の席には」
「伯爵は先ほど、公文書を婚約の席で読み上げるのを禁じる定めはない、と仰いました」
記録院長は、伯爵を見もせずに封を切った。
「わたしも、そう存じます」
◇
院長は、中の紙を取り出し、目を通した。
一度。それから、もう一度。
三十年、表情を変えずにこの国の紙を扱ってきた男の目元が、わずかに動いた。
「読み上げましょうか」
院長は、誰にともなく言った。
そのとき、アデライドが口を開いた。
「院長様」
「はい」
「お読みになるのは、アイゼナハ伯爵にお願いできませんでしょうか」
広間が、しんとなった。
伯爵が、目を見開いてアデライドを見る。
「先ほど、伯爵は断罪録の写しを、皆さまにお読み聞かせくださいました。同じ函に綴じられる紙でございます。──お読みになるのでしたら、最後まで。函の、いちばん新しい紙まで」
アデライドは、伯爵に向かって、教科書のように正確な礼をした。
「お読みくださいませ」
◇
伯爵は、しばらく動かなかった。
三百人が、伯爵を見ている。断罪録を読み上げた男が、同じ函の紙を読むのを拒めば、どう見えるか。この男にも、それはわかっているはずだった。
伯爵が、院長の手から紙を受け取る。
紙は、一枚きりだった。字が大きく、行が右へ傾いている。書き損じを線で消した跡が、いくつもある。
中指の第二関節に、力の入りすぎた字だった。
伯爵は、咳払いを一つして、読みはじめた。
「……記録院長殿」
声が、少し掠れた。
「わたしは、三年前、白鶴の間で断罪録を読み上げ、署名した。その紙を、わたしは一度も読まなかった。書記が書いた紙に、名前を書いて、印を押しただけだった」
伯爵の声が、途中で止まった。
三百人が、待っている。
伯爵は、続けた。
「今年の春、弟から手紙が来た。ヴァイセンブルクの娘に、婚約を申し入れる、と。手紙には、婚約書の七条と八条が書き写してあった。王太子は署名の前に必ず読む、と。──わたしは、それを読んで、三年ぶりに記録院の写しを取り寄せた。わたしが署名した断罪録の写しを」
◇
「はじめて、読んだ」
伯爵の声が、広間に落ちていく。
「四行しかなかった。四行とも、わたしが言ったとおりに書いてあった。そして、四行とも、嘘だった」
貴賓席で、王妃ゲルトルートが、膝の上の扇を握りしめた。
「二月十四日、わたしは南庭へ行っていない。茶会はなかった。わたしは、ミーナに、あの女に何かされたのだろうと訊いた。ミーナは、違うと言えなかった。わたしは、それを証言と呼んだ。ケーテには、見たと言うように頼んだ。ケーテはその日、王都にいなかった。わたしは、それも知らなかった。確かめなかったからだ」
伯爵の手が、紙を持ったまま震えていた。
読んでいる自分が、何を読まされているのか、伯爵にももうわかっているのだろう。
「──毒を盛った女は、どこにもいなかった。いたのは、読まずに署名した男だけだ」
広間の隅で、誰かが小さく息を呑んだ。
「この紙を、断罪録の函に綴じてほしい。訂正線の隣に。わたしの字で、わたしが嘘をついたと書いた紙を。──三年前、あの女は、百年同じ棚に並ぶと言った。並べるなら、わたしの書いた本当の紙も、並べておいてほしい」
伯爵は、最後の行で、言葉に詰まった。
ミーナが、扉のそばで両手を胸の前で握りしめていた。
「この紙は」
伯爵は、読んだ。
「読んでから、署名した。──ユリウス」
◇
広間は、長いこと静まり返っていた。
扇の音もしない。給仕の盆の触れ合う音もしない。三百人が、息を詰めている。
アイゼナハ伯爵は、紙を持ったまま立ち尽くしていた。
三年前の断罪録を読み上げた声で、三年後の陳述書を読み上げてしまったのだ。毒を盛った、と三百人に聞かせた口で、毒を盛った女はどこにもいなかった、と三百人に聞かせてしまった。
アデライドは、伯爵の前に歩み寄った。
「伯爵」
「…………」
「先ほど、わたくしが気に入らぬ紙を片端から直してきた、と仰いました」
伯爵が、ゆっくりと顔を上げた。
「わたくしが直したのは、気に入らぬ紙ではございません。嘘の書かれた紙です。──伯爵のご子息の示談書には、合意の上だったと書かれておりました。施療録には、両の手首に指の痕、とございました」
ざわめきが、さざ波のように広がった。
伯爵の顔から、血の気が引いていく。示談書のことを、この広間の半分は知らなかった。今、知った。
「わたくしは、あの示談書のことを、この席で申し上げるつもりはございませんでした」
アデライドは、静かに言った。
「ご子息の名を、婚約の席で汚すつもりは。──ですが、伯爵がわたくしの直した紙を並べてお見せになったので、一枚だけ、並べ直させていただきました」
伯爵は、何も言わなかった。
ユリウスの陳述書を記録院長に返し、断罪録の写しを卓の上に残したまま、人垣を割って広間を出ていった。代言人が、鞄を抱えて慌てて後を追う。
誰も、道を空けなかった。三百人が、ただ見送った。
◇
記録院長が、陳述書を丁寧に畳んだ。
「この紙は、明朝、断罪録の函に綴じます」
院長は、レオンハルトとアデライドに向かって一礼した。
「公文書は、間違いを消す仕組みではございません。間違えたことを残す仕組みでございます。──間違えた者が、自分で間違えたと書いた紙は、記録院に三十年おりまして、はじめて扱います」
院長は、陳述書を胸ポケットにしまった。
「大事に、綴じます」
◇
ミーナは、扉のそばに立ったまま、動かなかった。
アデライドは、三百人のあいだを抜けて、ミーナの前まで歩いた。
「間に合いましたね」
「……はい」
「四日で来たのですか」
「馬を、三回替えました。殿下が、どうしても今夜に間に合わせろって。弟の婚約の夜に、間に合わせろって」
ミーナの目に、涙が浮かんだ。
「殿下、あの紙を書くのに、ひと月かかったんです。毎晩、書いては破って。字が下手だから、って。書き損じを消して、また書いて。最後の晩に、やっと一枚、最後まで書けて。──それから、三回読み直して、署名しました」
「三回」
「はい。わたし、隣で数えてました」
アデライドは、しばらくミーナを見ていた。
「ミーナ様」
「はい」
「殿下に、お伝えくださいませ」
アデライドは、少しだけ言葉を探した。
「わたくしは、まだ殿下を許しておりません。母は、今も歩けません。許すつもりも、忘れるつもりもございません」
「……はい」
「ですが、あの紙は、読みました」
ミーナは、目を瞬いた。
「書式十七番を出したとき、わたくしは、百年同じ棚に並ぶ、と申し上げました。それが復讐だ、と。──殿下は、その棚に、ご自分で一枚足してくださいました」
アデライドは、扉の外の暗い廊下に目をやった。北へ続く街道の方角だった。
「同じ棚に並ぶなら、本当のことが書いてある紙のほうが、よろしゅうございます。そう、お伝えくださいませ」
ミーナは、何度も頷いた。頷きながら、泣いた。
◇
アデライドが広間の中央に戻ると、レオンハルトが卓の前で待っていた。
卓の上には、婚約書が広げられたままになっている。その隣に、アイゼナハ伯爵が置いていった断罪録の写しが一枚。
レオンハルトは、断罪録の写しを手に取り、卓の端へよけようとした。
「殿下」
アデライドは、それを止めた。
「その紙は、そこに置いておいてくださいませ」
「でも」
「婚約書の隣に」
アデライドは、断罪録の写しを、婚約書の隣に置き直した。
四行の嘘と、四本の訂正線。
その隣に、七条と八条。
「三年前、わたくしはこの広間で、一枚の紙に署名をお願いいたしました」
アデライドは、三百人の前で言った。
「今夜も、お願いいたします。──この二枚を、並べたまま」
貴賓席で、母のフレデリカが、輿の椅子の肘掛けに手をかけていた。
身を乗り出している。
最後まで、見るために。
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