最終話 では、署名をどうぞ
レオンハルトは、婚約書を手に取った。
三百人の前で、一条目から読みはじめる。声には出さない。目だけで、一行ずつ。
広間は、静まり返っていた。
誰も扇を使わない。給仕は壁際で盆を抱えたまま動かず、楽団は楽器を膝に下ろしている。王太子が紙を読むのを、三百人が待っていた。
長い時間がかかった。
一条。二条。持参の定め。披露の日取り。婚礼の時期。型どおりの文面を、レオンハルトは型どおりでないもののように、一字ずつ追っていく。途中で一度、指で行をたどり直した。
アデライドは、その指を見ていた。
中指の第二関節に、力が入りすぎている。父から兄へ、兄から弟へ受け継がれた癖。三年前、この広間で、同じ形の指がペンを取るのを見ていた。読み返さずに、署名した指を。
今夜の指は、紙の上にある。
七条。八条。
レオンハルトは、自分で書いた二つの条を、もう一度読んだ。それから、最後の行まで読み終えて、顔を上げた。
「読みました」
三百人の端まで、届く声だった。
◇
アデライドは、その婚約書を受け取った。
今度は、アデライドが読む番である。
三年前、婚約破棄の夜に、自分は一枚の紙も読まなかった。読む必要がなかったからだ。読まない男が、読まない紙に署名するのを、ただ見ていた。
今夜は、読む。
一条から。王太子レオンハルトは、ヴァイセンブルク侯爵家の娘アデライドに、婚約を申し入れる。
自分の名前を、紙の上で読むのは、不思議な心地がする。断罪録の一行目にも、自分の名前があった。三年のあいだ、その名前の上に訂正線が引かれ、余白に根拠が書き足され、函の中で眠っていた。
同じ名前が、今夜は別の紙の上にある。
七条。王太子は、いかなる紙にも、署名の前に、必ずこれを読む。読みてわからぬときは、妃に問う。
八条。妃は、王太子の代わりに読む者にあらず。王太子と妃は、おのおの自ら読み、おのおの自ら署名する。
アデライドは、最後の行まで読んだ。
それから、卓の上の断罪録の写しに目を移した。四行の嘘。四本の訂正線。その二枚が、並んでいる。
「読みました」
声は、震えなかった。自分でも意外なほどに。
◇
書記が、羽根ペンを二本、インク壺に浸して差し出した。
レオンハルトが一本を取る。アデライドが、もう一本を取る。
アデライドは、レオンハルトを見た。
レオンハルトも、アデライドを見ている。
三年前、この広間で、アデライドは一人の男に言った。では、署名をどうぞ、と申し上げるまでもございませんでしたね。あの男は、読まずに署名したから。言うまでもなかったのだ。
今夜は、言わなければならない。
読んだ男に、読んだ女が。
「では」
アデライドは、静かに言った。
「署名をどうぞ、殿下」
レオンハルトは、少しだけ口の端を上げた。三年前、廊下で笑わずに頷いた少年が、今夜は、ほんの少しだけ笑った。
「では、署名をどうぞ、アデライド」
二本のペンが、同時に紙に落ちた。
レオンハルト・レーヴェンハルト。
アデライド・フォン・ヴァイセンブルク。
それから、王太子印。
朱の印が紙に落ちる、乾いた音がした。
三年前と、同じ音だった。
◇
拍手は、すぐには起きなかった。
三百人が、まだ息を詰めている。何が起きたのかを、それぞれの胸のなかで確かめているようだった。三年前、この広間で何が書かれ、今夜、何が書かれたのか。
最初に手を叩いたのは、クラリッサだった。
女官たちの列の先頭で、一人だけ、まっすぐ顔を上げて。
それに、壁際のルーカスが続いた。フーゴの職人たちが続き、ヴェルナーが続く。やがて、広間じゅうが鳴った。白鶴の間の高い天井に、拍手の音が満ちていく。
アデライドは、貴賓席を振り返った。
◇
母は、輿の椅子に座ったまま、両手を膝の上で組んでいた。
拍手はしていない。する力が、もう残っていないのかもしれなかった。ひと月かけて作った身体で、九時の鐘からここまで、座りつづけていたのだから。
けれど、目は開いていた。
アデライドは、三百人の拍手のなかを抜けて、母の前まで歩いた。膝をつき、母の手を取る。
骨の形がわかる手だった。冷えている。それでも、指先に、ほんの少しだけ力がこもった。
「……見ましたよ」
母が言った。
かすれた声だった。拍手にかき消されて、アデライドの耳にしか届かない。
「最後まで、見ました」
「はい」
「三年かかりましたね」
「はい」
「三日では、足りなかったのね。ひと月でも、ぎりぎり」
母は、目を細めた。紅を入れていない頬が、ほんの少しだけ赤い。
「母親の役は、これでおしまい」
「お母様」
「あとは、あなたの役ですよ」
アデライドは、母の手に額をつけた。
泣いて帰ってきた日を、三度しか知らない、と母は言っていた。三度きりだったのは、娘が泣かなかったからだ、と。
四度目は、母の目の前だった。
◇
貴賓席の隣で、王妃ゲルトルートが立ち上がっていた。
母の輿のそばまで来ると、王妃は、何も言わずに母の肩に手を置いた。母は、顔を上げない。ただ、肩の上の手に、自分の手を重ねた。
二人の母は、長いことそうしている。
十六の春、刺繍の針目を競った二人だった。一人の息子は北にいて、今夜、自分の手で嘘を認める紙を書いて寄越した。一人の娘は、今夜、読んでから署名した。
「……あの子の字」
王妃が、小さな声で言った。
「アイゼナハが読んでいるあいだ、ずっと、あの子の字のことを考えていました。下手な字。書き損じだらけの字。──でも、最後まで書いてあった」
「ええ」
「最後まで、読んでから署名したと、書いてあった」
母は、重ねた手に、少しだけ力をこめた。
「よかったわね、ゲルトルート様」
「……ええ」
王妃の声が、震えた。
「よかったわ」
◇
父は、輿の脇に立っていた。
拍手が収まりはじめた頃、父はアデライドのそばへ来て、低い声で言った。
「剣も毒も、人も金も、使わなかったな」
「はい」
「三年、ずっとか」
「はい」
父は、ふん、と鼻を鳴らした。それから、珍しく、少しだけ間を置いた。
「……この家の娘なら、それで足りると言った」
「覚えております」
「足りすぎたな」
父は、母の輿の担ぎ棒に手をかけた。
「帰るぞ。フレデリカを、寝台に戻さねばならん。──おまえは、残れ。主役が先に帰るものではない」
父は、工部の職人たちに目で合図した。輿が持ち上がる。
母は、輿の上から、一度だけ振り返った。
何も言わない。言わなくても、わかる。
◇
婚約書は、翌朝、王家の文書庫に納められた。
写しが一通、記録院に回された。王家の婚約は、公文書として登記される決まりになっている。受理番号が振られ、公証簿の索引に一行が加わった。
閲覧は無料。写しは、銅貨二枚。
ルーカスは、その写しを書庫に運ぶとき、少しだけ迷ったという。王家の婚約の写しは、王家の棚に綴じるのが慣わしだ。けれど、記録院長に訊くと、院長は眼鏡を外して、一言だけ言った。
「断罪録の函の、隣の棚に」
断罪録の函には、その朝、新しい紙が一枚綴じられていた。北方の小領の封蝋のついた、下手な字の陳述書。訂正線の隣に。
そして、その隣の棚に、婚約書の写しが並んだ。
殿下がご自分で署名なさった紙と、わたくしが銀貨三枚で出した紙が、これから百年、同じ棚に並びます。
三年前、北へ発つ男にそう言った。
並んだのは、二枚ではなかった。読まずに署名した紙。銀貨三枚で出した紙。国王が認めた紙。読まずに署名した男が、三年かけて読んでから署名した紙。そして、読んだ男と読んだ女が、二人で署名した紙。
それで、じゅうぶんだった。
◇
婚礼までの半年、アデライドは王宮の妃教育の間に通うことになった。
十二の年に上がった、同じ部屋である。教える側の顔ぶれは変わっていた。教わることも、少しだけ変わっている。宰相府の書類を、毎朝、レオンハルトと二人で読む時間が、日課に加えられたからだ。
二人は、それぞれ自分で読んだ。わからないところは、互いに訊いた。
レオンハルトは、思っていたよりよく訊く。アデライドも、思っていたより訊いた。
◇
婚礼の前の晩、ヴァイセンブルク邸の裏口の扉が、叩かれた。
ハンナが、アデライドの寝室の扉をノックした。
いつもの声である。棘も、困惑も、慎重さもない。
「お嬢様。裏口に、お客様です」
「どなた」
「わかりません。名乗られないので」
ハンナは、少しだけ笑った。
「でも、銀貨を三枚、握ってらっしゃいます」
アデライドは、書き物机から立ち上がった。
明日からは、王宮で暮らす。ヴァイセンブルク邸の裏口に、もう客は来なくなるだろう。王太子妃の裏口に、銀貨三枚を握って来る者はいない。
アデライドは、抽斗を開けた。
書式十七番の束が、そこにある。ルーカスに頼んで、窓口で一式もらってきたまま、まだ使っていない分。
一枚を抜き出して、手に持った。
◇
裏口に立っていたのは、十二、三の少年だった。
パン屋の見習いらしい、粉のついた前掛けをしている。握りしめた拳を、アデライドの前に突き出した。指を開くと、汗で湿った布に、銀貨が三枚くるまれていた。
「親方の店の、借地の証文がおかしいって。親方は字が読めなくて。──市場の代書屋の爺さんに聞いたら、ここへ行けって」
アデライドは、少年の手の銀貨を見た。
それから、少年の手を、上から両手で包んだ。拳ごと、銀貨を閉じこめるように。
「そのお金は、しまっておきなさい」
「でも」
「明日、記録院の窓口へ行きなさい。写しの窓口に、ルーカスという書記がおります。ヴァイセンブルクの娘に言われて来た、と言えば、わかります」
アデライドは、書式十七番を一枚、少年の手に握らせた。
「親方の証文の写しを取って、その前後の番号の写しも、二枚取りなさい。銅貨六枚です。三枚を並べて、おかしいところがあったら、この書式に書きなさい」
「おれ、字、あんまり書けない」
「名前と、番号だけ書ければ、足ります。書き方は、窓口の書記が教えます。わからなければ、市場の代書屋の台で、銅貨一枚で教えてもらえます」
少年は、書式を見下ろした。
「……お嬢さまが、やってくれるんじゃないの」
「わたくしは、明日、嫁ぎます」
アデライドは、少しだけ笑った。
「それに、わたくしの家には、決まりがございます。人を雇うな、というのです。──わたくしがあなたの代わりに読めば、あなたはわたくしを雇ったことになります」
少年は、わからない、という顔をした。
「ご自分で、お読みなさいませ」
アデライドは言った。
「読んで、わからないところがあったら、人に訊けばいいのです。訊いて、わかったら、ご自分で書けばいい。──それだけで、紙はあなたの味方になります」
◇
少年は、銀貨を握りしめたまま、書式を胸に抱えて、夜の通りを駆けていった。
アデライドは、裏口の扉の前に立って、その背中が角を曲がるまで見送った。
ハンナが、隣に立っている。
「お嬢様」
「はい」
「銀貨、受け取らなかったんですね」
「窓口で払えばよいのです。手数料は、銀貨三枚」
アデライドは、扉を閉めた。
「窓口の値段ですわ」
ハンナは、少しだけ笑った。
それから、いつもの手つきで、裏口の閂を下ろした。
(完)
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