第8話 用水
工部の営繕記録所は、あいかわらず土埃の匂いがした。
閲覧室の奥から出てきた白髪の監督官は、アデライドを見るなり帽子を取った。先月、南庭の工事日誌の写しを出してくれたフーゴである。
「侯爵令嬢さま。また、どこかの現場が舞台に使われましたかな」
「今度は、小川です」
「小川」
「南門の外を流れる、王領の用水路です」
フーゴの顔から、冗談の色が消えた。
「……南門外の用水なら、うちの持ち場ですわ。何がありました」
アデライドが事情を話すあいだ、フーゴは黙って聞いていた。途中で一度だけ、ほう、と低く唸る。子爵家の差配が杭を打ち、傷薬の草の畝を踏んだと聞いたところだった。
「用水台帳を出しましょう」
話が終わると、フーゴは奥の棚へ向かった。戻ってきたときには、両腕に革表紙の綴りを抱えている。
「王領の用水は、区間ごとに台帳がありましてね。何年に浚ったか、どこの岸が崩れたか、それから両岸の地主の名前。浚渫の費用は、両岸の地主が半分ずつ持つ決まりなので」
台帳の頁が、音を立ててめくられていく。
南門外、第三区間。小川の流れに沿って、細かい字で記録が並んでいた。
東岸、フォルクマー子爵家。
西岸、ヨーゼフ。その名に線が引かれ、脇に、エルゼ、と書き直されている。
「ヨーゼフというのは」
「エルゼさんの義父だそうです。薬草園を拓いた方で」
「なら、この台帳では、三十年前から西岸は薬草園の地ということになってますな」
フーゴは指で行をたどった。
「浚渫の負担金も、西岸の分は毎回そちらから払われてます。領収の控えが、ここに」
アデライドは、その控えの束を見つめる。
エルゼは、自分の土地だと思っていたから払った。三十年、一度も欠かさずに。
「ただし」
フーゴは、言いにくそうに付け加える。
「うちの台帳は、誰が浚渫の金を出すかを書いとくだけのもんでしてね。土地の持ち主を決めるのは、記録院の原本です。子爵家の代言人がこれを見たら、工部の帳面は所有を定めるものではない、と言うでしょうな」
「そう言うでしょうね」
アデライドは頷いた。それは、わかっていることだ。
◇
「なぜ、あの土地なのでしょう」
控えの束を戻しながら、アデライドは呟いた。
「子爵家の牧草地は広い。薬草園の半分を取ったところで、牧草が少し増えるだけです。副本の焼けた土地を選び、書庫の原本を取り替え、窓口の書記の名まで汚して。そこまでして手に入れる畑には、見えません」
フーゴが、ふと顔を上げた。
「ああ。それなら、たぶん、水道ですわ」
「水道」
「王都の新しい上水ですよ。去年の秋に、道筋が決まりまして。南門の外で、あの用水の西岸に沿って引くことになったんです。西岸の地主には、用地の補償が出る。かなりの額が」
フーゴは、肩をすくめる。
「計画図は、去年の秋にうちで引きました。その頃、子爵家から問い合わせがありましたな。道筋は東岸ではないのか、と」
「東岸ではなかった」
「ええ。東岸は地盤が緩いので」
アデライドは、しばらく黙りこむ。
去年の秋に道筋が決まり、西岸に補償が出るとわかった。そしてひと月前、記録院の原本が取り替えられた。石垣から小川までの西岸が、子爵家の土地になるように。
牧草のためではない。補償金のためだ。
◇
「もう一つ、伺ってよろしいですか」
「なんなりと」
「浚渫の負担金について、子爵家が工部に何か申し立てたことは、ございませんか」
フーゴは、目を細めて記憶を探った。
「二年前にありましたな。浚渫の負担の決まりが変わったときです。それまでは王家が全額持っていたのを、両岸の地主の折半にした。貴族の皆さまからは、ずいぶん文句が出ました」
「子爵家からも」
「ええ。先代が亡くなって、いまの子爵様が継がれたばかりの頃で。ご本人がここへお見えになって、陳情書を置いていかれました」
フーゴは再び奥の棚へ行き、今度は薄い綴りを一冊持ってきた。陳情書の控えである。
該当の頁には、上質な紙に、流れるような手蹟で文面が綴られていた。末尾に、子爵家の印と、ベネディクト・フォン・フォルクマーの署名がある。
アデライドは、その文面を読んだ。
──当家の地は、南門外用水の東岸にて尽く。西岸は他家の地なれば、当家に西岸の浚渫を負わしむるは当たらず。東岸の負担のみにて足るべきものと存ず。
一度目は、ゆっくりと。
二度目は、指で行をたどりながら。
三度目に、アデライドは小さく息を吐いた。
「……ご自分で、書いていらっしゃる」
「なんです」
「子爵様は、ご自分の手で書いていらっしゃいます。西岸は、自分の土地ではない、と。二年前、浚渫の費用を払いたくなかったときに」
フーゴは、陳情書を覗きこんだ。しばらくして、顔中の皺をくしゃくしゃにして笑う。
「払いたくないときの紙と、もらいたいときの紙ですか」
「ええ」
「そりゃあ、食い違いますわな」
記録院の原本を取り替えた。教会の副本が焼けた土地を選んだ。入庫記録に、窓口の書記の名を書かせた。
子爵は、アデライドが並べるはずの紙を、先回りして一枚ずつ片づけていた。足もとを確かめる男なのだ。
ただ一枚、自分の書いた紙だけを、確かめ忘れた。
二年前の自分が何を書いたかなど、覚えてもいなかったのだろう。払いたくない金を払わずに済んだ日のことなど、人はいちいち覚えていない。
「写しを、お願いいたします」
「銀貨一枚です」
フーゴは、先月と同じ値段を言った。
◇
屋敷に戻る前に、アデライドは王都の西区へ寄った。
ルーカスの下宿は、染物屋の二階にある。窓口を外されてから、彼は一歩も外へ出ていないらしかった。扉を開けた顔には、無精髭が伸びている。
「令嬢。こんなところへ」
「伺いたいことがございまして」
アデライドは、階段の踊り場に立ったまま訊いた。
「あなたが毎日書く字を、毎日見ている方は、記録院にどなたがいらっしゃいますか」
ルーカスは、眉を寄せた。
「毎日、ですか」
「入庫記録のあなたの署名は、あなたの字によく似ていたと仰いました。よく似た字を書くには、手本が要ります。一度や二度見ただけでは、真似られません」
ルーカスの顔が、ゆっくりと変わっていく。
「……閲覧の請求書式です。窓口で受けた書式は、僕が受付の欄に署名して、書庫へ回します。書庫で原本を出すときに、書庫番が受け取る。毎日、何十枚も」
「書庫番の方は」
「ゲルハルトさんです。三十年、書庫におられる方で」
ルーカスは、壁に手をついた。
「あの人が、僕の字を」
「まだ、わかりません」
アデライドは言った。
「わかっているのは、あなたの字を毎日何十枚も受け取っていた方が、この院に一人いらっしゃるということだけです」
◇
三日後、記録院から通知が届いた。
フォルクマー子爵家が、南門外の土地について、境界の確認を申し立てたという。記録院の原本に基づき、石垣を境と確定させる手続きだった。照合の日取りは、七日後。
「先に、確定させるつもりですね」
ハンナが、通知を覗きこんで言った。
「確定したら、どうなるんです」
「もう一度くつがえすには、ずっと面倒な手続きが要ります。子爵様は、わたくしが何かを見つける前に、扉を閉めてしまおうとしていらっしゃるのです」
アデライドは、書き物机の抽斗を開けた。
書式十七番の残りは、もう一枚だけ。
申立の事項を書く。受理番号と、記載の箇所。訂正の根拠として、工部の用水台帳の写しと、浚渫負担金の領収の控えと、二年前の陳情書の写しを添える。
最後に、もう一行だけ書き加えた。
──照合の席に、書庫番ゲルハルト殿の同席を願う。
ペンを置くと、窓の外で夕暮れの鐘が鳴っていた。
隣の寝室で、母が小さく咳をする音がした。エルゼに頼んで分けてもらった咳止めの草を、ハンナが今朝から煎じている。
石垣の外の畝から摘んだ草だった。
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