第7話 副本
南教区教会の司祭は、まだ三十にもならない男だった。
副本の話をすると、司祭は申し訳なさそうに眉を下げ、礼拝堂の裏手へアデライドを案内した。石造りの小さな蔵がある。扉の鉄枠が、いまも黒く煤けていた。
「五年前の冬です。前の司祭様が、燭台を倒されまして」
蔵の中は、半分が空だった。
奥の棚にだけ、新しい綴りが並んでいる。手前の棚には何もない。床に、焦げた木の跡が四角く残っていた。棚があった跡だ。
「焼けたのは、手前の棚の分です。南門の外の土地の副本は、ほとんどそこにございました。記録院には届けを出してありますが、焼けた副本を作り直すには、土地の持ち主が一人ずつ申し出なければならない決まりで」
「申し出た方は」
「ほとんどおられません。皆さま、原本があるから十分だとお考えになります」
司祭は、焼け残った目録を一冊差し出した。背表紙の半分が炭になっている。
アデライドは目録をめくった。南門外の土地の欄に、細い字で書き添えがあった。
──右、焼失。
エルゼの薬草園の副本も、その一行のなかに含まれている。
アデライドは目録を閉じ、蔵の外に出た。
春の陽が、教会の庭の敷石を白く照らしている。まぶしさに、少しだけ目を細めた。
偶然ではない。
原本を取り替えた人間は、副本が焼けていることを知っていた。副本が残っている土地なら、取り替えても照合で崩される。だから、副本の焼けた土地を選んだ。南門の外、小川のそば、三十日で追い出せる母娘二人の畑を。
グラーツ伯爵は、九年前の成功に寄りかかって同じ手を使った。
今度の相手は、寄りかかる前に、足もとを確かめている。
◇
屋敷に戻ると、ルーカスが待っていた。
応接間に通されても座らず、帽子を胸に抱えたまま立っている。顔が紙のように白い。
「入庫記録を、見ました」
「どうでしたか」
「あの綴りが最後に書庫から出されたのは、ひと月前です。出庫の署名が、残っていました」
ルーカスは、ひと呼吸置く。
「ルーカス・ヘルト、とありました」
ハンナが、盆の上で茶器を鳴らした。
「僕じゃありません。僕は、あの綴りに触ったこともない。でも、字は僕の字に似ていました。よく、似ていました」
「院長様には」
「お伝えしました。そうしたら、今日から調べがつくまで、窓口を外れるようにと。……院長様は、公平な方です。規則どおりに扱っておられるだけで」
ルーカスは笑おうとして、失敗した。
「令嬢に、ご迷惑をおかけしました。僕が窓口にいないと、閲覧の手続きも、ほかの者を通すことになります」
「迷惑をおかけしたのは、わたくしのほうです」
アデライドは言った。
「あなたは、わたくしのために書庫の記録を見てくださった。その記録に、あなたの名前が書いてあった。──あなたの名を使った人は、わたくしが入庫記録を調べると読んでいたのです。わたくしが頼むとしたら、あなたしかいないことも」
読まれている。
一手ごとに、先回りされている。アデライドが紙の隣に紙を並べる女だと、この相手は知っていた。だから、並べる紙をあらかじめ燃やし、調べる者の名をあらかじめ汚しておいた。
◇
フォルクマー子爵が訪ねてきたのは、その翌日である。
先触れの使いをよこし、正門から、昼の最中に。三十をいくつか過ぎた、柔らかな物腰の男だった。応接間の椅子に座ると、まず母フレデリカの容態を丁寧に尋ね、それから庭の敷石の草を褒めた。
「抜かずにおいていらっしゃる。よい趣味です」
「母の窓から見えますので」
「なるほど」
子爵は、湯の器を両手で包んだ。
「南門の外の件で、ご足労をおかけしているそうですね。あの母娘には、わたしも気の毒なことをしていると思っております。三十年、他人の土地を自分の畑と思いこんで耕してきたのですから」
「思いこんで、でしょうか」
「記録院の原本が、そう申しております」
子爵は、穏やかに笑った。
「あなたの流儀でしょう。紙に書いてあることが正しい。書いた者は、書いたことに責任を負う。──わたしは、その流儀に従っているだけですよ」
グラーツ伯爵と、同じ言い回しだった。
この春、アデライドの理屈は、いつのまにか王都の貴族たちの口癖になっているらしい。
「見舞金を用意しております」
子爵は懐から、封をした包みを出して卓に置いた。厚みがある。
「母娘への。石垣の外の畑の、三年分の収穫に見合う額です。あなたから渡していただければ、あの二人も受け取りやすいでしょう。これ以上、あなたが南門と記録院を往復なさる必要もなくなる」
アデライドは、包みに手を触れなかった。
「子爵様」
「はい」
「わたくしの家には、父の定めた決まりが四つございます。そのうちの一つが、金で口を買わない、というものです」
「口を買うつもりはありません。見舞いです」
「では、なおのこと、ご自分でお渡しくださいませ」
子爵は、しばらくアデライドを見ていた。それから包みを懐に戻し、立ち上がる。怒った様子はない。最後まで、柔らかな物腰のままだった。
「窓口の書記の件、お気の毒でした。若い方だそうですね」
戸口で振り返って、子爵はそう言った。
「記録院も、身内から不正が出ると大変です。院長殿は、厳しい方ですから」
◇
三日後、マルタが屋敷の裏口に来た。
今度は夜ではなく、昼である。頭巾もかぶっていない。泥のついた前掛けのまま、走ってきたらしい。
「杭が、打たれました」
息を切らしながら、マルタは言った。
「石垣の外に。子爵様のお屋敷の人たちが来て、縄を張って。畑の上から、杭を。傷薬の草の畝を、踏んで」
アデライドは、黙って聞いている。
「母さんが、もういいって言ってます。写しがあっても、原本が違うんだから、どうにもならないって。井戸は石垣の内側だから、内側だけでも残ればいいって」
マルタは、前掛けの裾を握りしめた。
「それで、母さんが。お代を返してもらってこいって」
言いにくそうに、目を伏せる。
「畑の外側がなくなったら、組合に卸す草がなくなります。銀貨三枚でも、うちには要るお金です。それに、どうにもならないことを、これ以上令嬢さまに頼むのは申し訳ないって」
アデライドは、書き物机の抽斗を開けた。
布にくるんだ銀貨が、三枚。あの夜にマルタが差し出したまま、手をつけずにしまってある。
アデライドはそれを取り出し、マルタの目の前で広げて見せた。
見せただけで、渡さない。布を元どおりに包み直し、抽斗へ戻す。
「お返しするのは、わたくしが負けたときです」
「でも」
「まだ、負けておりません。負けてもいないうちにお代を返したら、わたくしは途中で仕事を放り出したことになります。──お母様には、そうお伝えくださいませ。三枚は、負けたら必ずお返しします、と」
マルタは泣きそうな顔をしている。けれど泣かずに、頷いた。
◇
その夜、アデライドは母の寝室で、エルゼの写しを広げていた。
母は眠っている。咳が、今夜は少し多い。
燭台の火で、茶色く焼けた図面を一本ずつたどっていく。石垣の線。家の輪郭。井戸の丸。畝の区切り。そして、畑の端を流れる小川。
小川の線の脇に、小さな書き入れがあった。
境の字ではない。もっと小さく、測量士の手で、ついでのように。
──王領用水。
アデライドは、その四文字を二度読んだ。
小川は、ただの小川ではなかった。王家の用水路だ。王領の水路であれば、持ち主は子爵でも、薬草園でもない。王家である。
そして王家の水路を管理するのは、記録院ではない。
「……工部」
声に出してから、アデライドは母が目を開けていることに気づいた。
「何か、見つけたのね」
「はい」
「あなたが夜中に声を出すのは、そういうときだけです」
母は、また目を閉じた。
「行ってらっしゃい。わたくしは、咳をしながら待っています」
工部の営繕記録所。閲覧料は銅貨二枚。
白髪の監督官が、うちの現場を舞台に使われるのは迷惑だ、と言っていた場所である。
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