第6話 原本
裏口にいたのは、十五、六の娘だった。
頭から被った麻の頭巾が、夜露で重くなっている。父の書斎に通しても、娘は椅子に座らなかった。握りしめた拳を、アデライドの前に突き出す。
指を開くと、布にくるんだ銀貨が三枚あった。布は汗で湿っている。
「薬師組合の組合長さんが、言ってました。銀貨三枚で、紙を直してくれる人がいるって」
「組合長さんのお知り合いですか」
「母が、組合に薬草を卸してます」
娘はマルタと名乗った。姓はない。王都の南門の外で、母と二人で薬草園をやっている。祖父の代からの畑で、祖父が死に、父が死に、いまは母のエルゼが一人で切り盛りしているという。
「半月前に、フォルクマー子爵様のお屋敷から、差配の人が来ました。記録院の写しを持って。うちの畑の半分は、子爵様の土地だって」
「半分」
「石垣から向こう、ぜんぶです」
マルタは、両手で形を作ってみせた。
薬草園の真ん中を、祖父が積んだ古い石垣が通っている。家と井戸は石垣の内側で、その外に畑が広がり、畑の端を小川が流れている。小川の向こうは子爵家の牧草地だ。
「うちの土地は、小川までです。祖父のときから、ずっとそうです。境の石も、小川のそばに埋まってました。──でも、差配の人が来た次の日に、境の石がなくなってました」
父がわずかに身じろいだのを、アデライドは目の端で捉えた。
「母は、祖父が昔取った写しを持ってます。そこには、境は小川だって書いてある。でも差配の人は、記録院の原本では石垣が境になってるって。写しと原本が違ったら、原本のほうが正しいんだって」
「そういう規則です」
「知ってます。母が、記録院で聞いてきました」
マルタの声が、はじめて揺れる。
「三十日のうちに、石垣の外から出ていけって言われました。石垣の外に植えてるのは、傷薬の草と、熱さましの草と、咳止めの草です。薬師組合に卸してるのは、ぜんぶそっちです。内側には、うちで食べる野菜しかない」
アデライドは、銀貨を見た。
この娘が、どれだけの日数をかけてこれを貯めたのか。それは、紙には書かれていないことだった。
「お引き受けいたします」
マルタが、目を見開いた。
「ただ、先に申し上げておきます。わたくしがこれまで直してきたのは、紙に書かれた中身の嘘です。原本そのものが本物で、原本が石垣と言っているのなら、わたくしにもどうにもなりません」
「原本が、嘘だったら」
「そのときは」
アデライドは、少しだけ言葉を探した。
「そのときは、わたくしも初めてのことになります」
◇
翌日、アデライドはマルタの案内で南門の外へ出た。
薬草園は、思っていたより広い。春の陽を受けて、石垣の外の畝に細い葉が並んでいる。風が吹くたびに、青い匂いが立ちのぼった。畑の端では小川が浅く流れ、向こう岸に牧草地が続いている。
小川の縁に、土を掘り返した跡が一つあった。
「ここに、境の石が」
エルゼは四十前後の、日に焼けた女である。娘と同じように、アデライドの前では落ち着かなげに前掛けを握っていた。
「祖父……わたしの義父が、ここに埋めたんです。子爵様の先代と二人で、測量士さんを呼んで。そのときの写しが、これです」
差し出された写しは、紙の端が茶色く焼けていた。三十年ほど前の日付。図面の上に、細い線で小川が引かれ、その線に沿って「境」と書かれている。測量士の署名は、イグナーツとあった。
石垣の線には、何も書かれていない。
「母さんは、心配してないって言うんです」
帰り道、マルタが小声で言った。
「写しがあるから大丈夫だって。記録院の人が、見ればわかるって」
アデライドは答えなかった。
記録院の人が見れば、わかる。原本のほうが正しい、ということが。
◇
原本の閲覧は、窓口ではなく書庫の前室で行う決まりになっている。
持ち出しは禁止。監視の書記が一人つく。今日の監視役は、ルーカスだった。
「書庫番に頼んで、回してもらいました」
ルーカスは小声で言い、分厚い綴りを卓の上に置いた。南門外の土地登記。該当の頁に、紐で目印がつけてある。
アデライドは、頁を開いた。
三十年前の日付。測量士イグナーツの署名。子爵家の先代と、エルゼの義父の署名。図面の上に、小川の線と、石垣の線。
そして、石垣の線に沿って、はっきりと「境」の字があった。
小川の線には、何も書かれていない。
アデライドは、写しと原本を並べた。
日付は同じ。署名も同じ。受理番号も同じ。図面の線の引き方まで、写しとそっくり同じである。違うのは、「境」の一字が、どちらの線の上にあるかだけだった。
「前後の番号は」
「確かめました。並んでいます。日付も、前後と合っています」
ルーカスは先回りして答えた。彼も、もうアデライドのやり方を知っている。
「受理番号も、受理日も、署名も、揃っております。原本としての形式に、どこにも欠けはありません」
「では、この原本は正しいのですね」
「規則のうえでは」
ルーカスは言いにくそうに付け加えた。
「写しと原本が食い違えば、写しの取り違えとして扱われます。三十年前の写しなら、なおさらです。書き写した書記が、線を一本間違えた。そう判断されます」
アデライドは、原本の「境」の字に目を近づけた。
インクの色は、周囲の字と見分けがつかない。筆の運びも、三十年前の書記の癖を真似ている。紙の焼け方も、ほかの頁と同じだった。
ただ、一枚だけ、ほかの頁より綴じ紐の穴が大きかった。
大きいといっても、ほんのわずかだ。糸を一度抜いて、通し直した穴。アデライドがそれに気づいたのは、王太子妃の教育で古文書の修繕を習ったからにすぎない。王城の書庫で、虫の食った古い勅書を綴じ直す手伝いを、何度かさせられたことがある。
「ルーカスさん」
「はい」
「この綴りを、最後に書庫から出したのは、どなたですか」
ルーカスの顔色が、少し変わる。
「書庫の出入りは、入庫記録に残ります。……でも、閲覧できるのは院の者だけです」
「では、あなたが見てくださいませ」
「僕が」
「ええ。わたくしは、見てはいけないのでしょう」
アデライドは、原本を閉じた。
これまで、紙は嘘をつかない。そう思ってきた。嘘をつくのは、いつも紙に書く人間のほうだった。王太子も、グラーツ伯爵も、嘘を書かせることはできても、紙そのものを取り替えることはしなかった。
今度は、違う。
誰かが、原本を取り替えた。記録院の書庫の奥で、三十年前の頁を一枚抜き、よく似た一枚を差しこんで、綴じ紐を通し直した。
それができる人間は、この建物のなかにしかいない。
◇
帰り際、アデライドは原本の頁の隅に、もう一行だけ小さな書き入れがあったことを思い出した。
書記の手で、図面の下の余白に。
──副本、南教区教会に納む。
公文書は、正副二通作られる。原本は記録院に、副本は土地のある教区の教会に。火事や水害で片方が失われても、もう片方が残るように。記録院長が審問の日に言っていたことを、アデライドは思い返した。公文書は、間違えたことを残す仕組みだ、と。
原本を取り替えた者が、副本まで取り替えたかどうか。
屋敷の門をくぐると、前庭の敷石の継ぎ目で、草がまた増えていた。
何本になったのかは、わからない。数えるより先に、南教区教会までの道のりを頭のなかで描いていたからだ。
お読みいただき、ありがとうございました!
皆様にお願いです
ブックマークや下の【☆☆☆☆☆】をタップして【★★★★★】に
応援していただけますと励みになります! よろしくお願いいたします(^^♪




