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婚約破棄は結構ですので、その断罪書にご署名をいただけますか 〜紙一枚で、片をつけます〜  作者: 桜野結
第1章

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第五話 銀貨三枚

 照合は、記録院の奥の小部屋で行われた。


 白鶴の間とは比べるまでもない。国王の審問が開かれた部屋よりも、さらに狭かった。窓が一つ、長い卓が一つ。卓の上座に記録院長が座り、その脇でルーカスが書記の席についている。


 卓の片側には、グラーツ伯爵と、伯爵家の代言人。その後ろに、腰に手を当てた白髪の書記がひとり。オットマーである。


 反対側に、アデライド。少し離れて、ベルク伯爵とクラリッサが並んで座っていた。


 ベルク伯爵は、ひと月で十も老けたように見える。娘の隣に座りながら、一度も娘のほうを見ない。クラリッサもまた、父を見ようとしない。


「では、はじめます」


 記録院長が、四百十二番の写しと、その前後の二枚を卓に並べた。


「申立人は、受理番号の並びをもって、受理日の記載が事実と異なると申し立てております。相手方のご意見を伺います」


 代言人が立ち上がる。四十がらみの、よく通る声の男である。


「書き損じでございます」


 あっさりとした口ぶりだった。


「建国祭の当日、婚姻の窓口は通用口のみで開けております。当番の書記は一人。例年より組数が多く、受付簿への記入が追いつかなかった。そこで、この一件のみ、後日まとめて記入した。その際に、番号だけが後の日付の並びに入った。──受理そのものは、建国祭の当日に行われております。当番の書記本人が、それを証言いたします」


 オットマーが、一歩前へ出た。腰をかばう仕草が、どこか芝居がかっている。


「建国祭の昼前でございました。ベルク伯爵ご本人が、通用口へお見えになりました。わたくしが受け付け、受理印を押しました。番号は、三日後に受付簿へ書き入れたものでございます。忙しさにかまけた、わたくしの落ち度で」


 記録院長は、表情を変えなかった。


「申立人。ご反論は」


 アデライドは、すぐには答えなかった。


 ベルク伯爵の横顔を見る。膝の上で組んだ両手の指が、白くなっていた。建国祭の昼前、通用口へ行ったとされている男の手だ。


 この男に訊けば、崩れるかもしれない。だが、崩れないかもしれない。後ろにはグラーツの目がある。借金がある。娘の前で、自分が何をしたかを口にする覚悟があるとは、アデライドには思えなかった。


 それに、人の口で争えば、人の口で返される。


「反論ではございません」


 アデライドは、外套の内側から三枚の写しを出した。


「もう一件、同じ照合をお願いしたく存じます。──グラーツ伯爵の、二人目の奥方様の婚姻登記です」


 代言人の顔から、表情が消えた。


 グラーツ伯爵は、動かない。杖の握りに両手を重ねたまま、落ちくぼんだ目でアデライドの手元を見ていた。


◇


 記録院長は、三枚の写しを受け取り、並べた。


 エレオノーレ・フォン・ハルトマン。十九歳。


 受理日は、九年前の初夏のある日である。建国祭とは何の関わりもない、ありふれた平日だった。通用口も何もない。正面の扉が開いていて、窓口には書記が何人も座っていた日だ。


 そして、その番号の前後の二枚は、どちらも四日後の日付で受理されていた。


「……同じだ」


 ルーカスが、書記の席で思わず呟いた。記録院長が視線だけで制する。ルーカスは口をつぐんだが、ペンを持つ手が止まっていた。


「ハルトマン子爵家に、問い合わせをいたしました」


 アデライドは言った。


「エレオノーレ様のお誕生日は、受理日の翌々日でございました。受理日が本当ならば、十九歳。番号の並びのとおりならば、二十歳。二十歳の娘の婚姻には、本人の出頭が要ります。──子爵家の皆様は、エレオノーレ様が記録院へ出向いたことはないと仰っておいでです」


 部屋が、静まり返る。


「書き損じと仰いました」


 アデライドは、代言人ではなくオットマーを見た。


「建国祭の日は、組数が多くて記入が追いつかなかった、と。では、九年前のこの平日は、何が追いつかなかったのでしょう」


 オットマーの口が、開いたまま止まっている。


「受付簿の当番の欄を、院長様にご確認いただければ、九年前のその日に誰が窓口に座っていたか、わかるはずです」


 記録院長が、ルーカスに目で合図した。ルーカスは部屋を出て、分厚い受付簿を二冊抱えて戻ってくる。記録院長はそれを開き、指で行をたどった。


 九年前の、その日。当番の欄。


 院長は、名前を読み上げなかった。読み上げる必要がなかった。オットマーの膝が、先に折れたからだ。


「……一度なら、書き損じと申せましょう」


 記録院長の声は、あいかわらず平坦である。


「二度は、書き癖でございます」


◇


 オットマーは、すべてを話した。


 九年前に一度、グラーツ伯爵の家令から頼まれたこと。銀貨の袋を受け取ったこと。その袋が、思っていたより重かったこと。


 そして今年、建国祭の三日後に、同じ家令が通用口ではなく裏の通路へ来て、一枚の届を差し出したこと。


「九年前と、同じにしてくれ、と。それだけ言われました」


 代言人は、いつの間にか席に座っていた。何も言わない。言うべきことが残っていないのを、この部屋で一番よく知っているのが彼だった。


 そのとき、ベルク伯爵が顔を上げた。


「……三日だ」


 かすれた声である。


「あの夜、娘に署名させてから、わたしは三日、あの紙を書斎の抽斗に入れたままにしていた。渡せなかった。建国祭の日に届を出せと、伯爵には言われていたのに。祭りの鐘が鳴っても、行列が通っても、抽斗を開けられなかった」


 クラリッサが、初めて父のほうを向いた。


「三日目に、グラーツ家の家令が来た。抽斗から、紙を持っていった。わたしは、止めなかった」


 ベルク伯爵は、両手で顔を覆った。


「止めなかったんだ」


 クラリッサは何も言わない。ただ、父の袖に、指先だけを触れさせた。


 アデライドは、それを見ないことにした。


◇


 記録院長の裁定は、その場で下る。


 受理番号四百十二、ならびに九年前の該当番号。二件とも、受理日の記載を前後の番号に従って訂正する。訂正の根拠と日付は、原本の余白に記す。申立書は原本に綴じこみ、同じ函に永久保存する。


「訂正の結果として」


 院長は、事務的に続けた。


「両名とも、受理の時点で二十歳に達していたことになります。本人の出頭のない二十歳の婚姻は、登記の要件を欠きます。したがって、二件の婚姻は、いずれも成立しておりません」


 グラーツ伯爵が、初めて口を開いた。


「たかが、日付で」


 低い声である。回廊で聞いた穏やかさは、どこにもなかった。


「たかが日付で、奥方になさったのでしょう」


 アデライドは答えた。


「伯爵は、先日わたくしに仰いました。読まずに署名した者は、署名したことに責任を負う、と。そのとおりでございます。クラリッサ様は、読まずにご署名なさいました。その責任は、あの方がこれから一生お負いになります。──ですから、わたくしは、署名には一度も触れておりません」


 伯爵の目を、まっすぐ見る。


「伯爵は、お読みになったうえで、日付を書かせました。二度も。読んで書かせた方の責任は、読まずに書いた者よりも重うございます」


 記録院長が、最後に一枚の紙を取り上げる。


「なお、ハルトマン家の令嬢エレオノーレ殿は、グラーツ家の妻ではなかったことになります。妻であれば伯爵家の家内の事として、伯爵家の裁きで済んでおりました階段での事故も、他家の娘がよその屋敷で亡くなった件となれば、扱う役所が変わります。──この裁定の写しは、本日中に王都の検察院へ回します」


 グラーツ伯爵の杖が、床の上でわずかに滑った。


 それが、この男が見せた唯一の動揺だった。


◇


 記録院の正面の石段を、クラリッサが追いかけてきた。


 春の陽が高い。石段の下では、ハンナが馬車の扉を押さえて待っている。


「アデライド」


 呼ばれて、振り返る。


 クラリッサは、息を切らしていた。目はまだ赤い。それでも、顔を上げている。


「借金は、なくならないの。グラーツ家への。父と話して、西の畑を売ることにした。それでも足りない分は、わたしが王妃様の女官に戻って返す。父は反対したけど、もう、父の言う紙には名前を書かないって言ったの」


「読んでから、お書きになればよろしいのです」


「……そうね。今度は、読むわ」


 クラリッサは、外套のポケットから何かを出した。菓子店の紙包みである。中央通りの、あの店の。


「お礼じゃないわよ。銀貨三枚は、もう払ったから。これは、ただの、菓子」


「ただの菓子」


「あの店の前で、あなたの顔を見なかったでしょう。だから、今度はあの店のものを持ってきたの。──ちゃんと見て、渡したかった」


 アデライドは、紙包みを受け取った。


「アデライド。許してくれた?」


 少しだけ、考える。


「半分だけ」


 クラリッサは、泣きそうな顔で笑う。


「半分」


「目を上げてくださいましたので。残りの半分は、これからでございます」


「……ほんとうに、あなたらしい」


「八年、隣におりましたので」


 今度は、口が勝手に動いたのではなかった。


◇


 屋敷へ戻ると、前庭の敷石の継ぎ目で、草が七本になっていた。


 アデライドはそれを数えてから、母の寝室へ上がる。菓子の包みを開けると、フレデリカは珍しく、自分から手を伸ばした。


「ベルクの娘さんは」


「西の畑を売って、女官に戻るそうです」


「そう。許したの」


「半分だけ」


 母は、菓子をひと口かじって、目を閉じる。


「半分なら、上出来です。わたくしがあなたのお父様を許せたのは、結婚して十年目でしたよ。それも、三分の一ほど」


「何を、なさったのですか。お父様は」


「それは、紙には書いてありません」


 夕刻、父が書斎からアデライドを呼んだ。


 卓の上に、封を切った手紙が一通ある。ハルトマン子爵家からだった。九年前に娘を亡くした老子爵が、震える字で礼を書き連ねている。最後の一行だけ、字が大きい。


 ──娘の名が、あの男の妻の欄から消える日を、九年待っておりました。


「おまえ宛てだ。家の当主として先に読ませてもらった」


「お父様」


「なんだ」


「剣も毒も、人も金も、使っておりません」


「知っている」


 父は手紙を畳み、娘に渡す。


「……銀貨三枚は、やはり安すぎる」


「窓口の値段ですわ」


「窓口は、九年も待たせたがな」


 父がそう言ったとき、書斎の扉が遠慮がちに叩かれた。


 ハンナが、顔だけをのぞかせる。今度の声には、棘がなかった。どちらかといえば、困惑している。


「お嬢様。裏口に、お客様です」


「どなた」


「それが……」


 ハンナは、言いにくそうに口ごもった。


「名乗られないんです。記録院で、お嬢様のことを聞いてきたって。銀貨を三枚、握ってらっしゃいます」


 アデライドは、父と顔を見合わせる。


 父は、黙って書斎の燭台に火を足す。


 話を聞くなら、ここを使えという意味だった。

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