第四話 隣の紙
記録院の扉が開くと同時に、アデライドは窓口の前に立っていた。
ルーカスは彼女の顔を見るなり、観念したように書式の束を引き寄せる。
「今日は、何を」
「写しを二通。受理番号の四百十一番と、四百十三番を」
「番号で、ですか」
「番号で請求してはいけない決まりがございますか」
「……ありません。ありませんけど、番号で請求なさる方は初めてです」
ルーカスは請求書式に番号を書き入れながら、声を落とした。
「あの、昨日の件ですが。伯爵に知らせているのは、僕じゃありません」
「存じております」
「え」
「あなたでしたら、昨日わたくしにオットマーさんの名前を教えなかったでしょう」
ルーカスは、何か言いかけて、やめた。耳の先が赤い。
「かまいませんのよ。今日わたくしが何を請求したかも、どうぞ伯爵にお伝えくださいと、その方に申し上げておいてください。番号を二つ。それだけです」
「……伝わっても、よろしいんですか」
「番号を二つ聞いて、伯爵が何をお考えになるか。わたくし、それが知りたいくらいですの」
◇
写しは、四半刻で出てきた。
アデライドは閲覧室の長い卓に二枚を並べ、そのあいだに、クラリッサの婚姻登記の写しを置いた。
四百十一番は、出生の届である。王都の東の染物屋に、男の子が生まれたという。
四百十三番は、家屋の売買の登記だった。北区の古い二階家が、粉屋から靴屋へ渡っている。
受理日は、二枚とも同じ日付。
建国祭の、三日後。
そして、その二枚に挟まれた四百十二番だけが、建国祭の当日に受理されたことになっていた。
ハンナが、三枚を順に指でたどった。一度、二度。三度目で、ようやく声が出る。
「……順番が、おかしい」
「ええ」
「建国祭の日に出した届なら、三日後の届より前の番号になるはずですよね」
「そうです」
「なのに、真ん中にいる」
「番号は、受付簿に上から一行ずつ書き入れて振るものです。前の行を飛ばすことも、後から行を差しこむこともできません。──この届は、建国祭の三日後に受け付けられたのです。そのときに四百十二番という番号をもらい、日付だけ、三日前に書かれた」
アデライドは、声を平らに保つのに苦労した。
なぜ三日前でなければならなかったのか。その理由は、もう知っている。クラリッサの誕生日は、建国祭の翌日なのだ。三日後に受け付けたのでは、彼女はもう二十歳になっている。二十歳の娘の婚姻には、本人の出頭が要る。
日付を三日戻せば、娘は十九のままでいられる。
本人は、窓口に来なくてよくなる。
「念のため、もう一つ確かめます」
アデライドは窓口へ戻り、ルーカスに婚姻登記簿の索引を頼んだ。索引は公開で、閲覧は無料である。建国祭当日に受理された婚姻は、十一組。番号は三百七十台から三百八十台へ、一つの抜けもなく並んでいた。
当日の十一組のなかに、四百十二番はいない。
「ルーカスさん」
「はい」
「もう一通、写しをお願いいたします」
アデライドは、請求書式に名を書いた。
ディートリヒ・フォン・グラーツ。過去の婚姻登記、すべて。
◇
伯爵の婚姻登記は、二通あった。
一人目の妻は、隣領の伯爵家から来た二十六歳の女性で、嫁いで二年目の冬に病で亡くなっている。届に不審なところは見当たらない。
二人目の妻は、エレオノーレ・フォン・ハルトマン。子爵家の娘。
年齢の欄には、十九と書かれていた。
アデライドは、その数字をしばらく見ていた。
それから、何も言わずにその写しの左上の番号を書き写し、もう一度窓口へ立つ。ルーカスが、今度は何も訊かずに請求書式を差し出した。
「隣を二つ、ですね」
「ええ。隣を二つ」
その三枚が何を語ったかを、アデライドはハンナにも言わなかった。写しを外套の内側にしまい、別の書式を窓口に置く。
公文書記載事項の訂正申立。書式十七番。
窓口の向こうで、ルーカスの手が止まった。
「……また、これですか」
「前回と同じ窓口ですわね。手数料は銀貨三枚」
申立の事項は、ただ一行である。
受理番号四百十二、ベルク伯爵家クラリッサの婚姻登記。受理日の記載を、前後の受理番号の記載に従い、建国祭の三日後と訂正されたい。
婚姻が無効だとは、どこにも書かなかった。伯爵の名も、父ベルク伯爵の名も書いていない。署名にも触れていない。直してほしいのは日付だけで、日付が直れば、あとは規則が勝手に片をつける。
ルーカスは申立書を二度読み、それから顔を上げた。
「受理番号が、振られます」
「承知しております」
「振られた時点で、この登記には係争中の付箋がつきます」
「それも、承知しております」
アデライドは、閲覧室の奥を目で示した。卓の端に、分厚い規則集が鎖でつながれている。今朝、写しを待つあいだに、婚姻登記の章を最後まで読んでおいた。
「係争中の婚姻登記にかかる妻を、王都の外へ移すには、記録院の許可を要する。──婚姻登記規則の第二十二条です。記載の真偽が定まらないうちに、当の女性を遠くへ連れ去られては、訂正のしようがありませんものね」
ルーカスは、受理印を持ち上げたまま、しばらく動かない。
「伯爵は、明日の朝、発つと」
「ええ」
「係争の通知は、当事者へ三日以内に送る決まりです。明日の朝には、間に合いません」
「存じております」
アデライドは、手数料の銀貨を三枚、台に並べた。
「ですから、通知の写しを、わたくしが自分で持ってまいります」
朱の印が、紙に落ちた。
乾いた音がする。ひと月前、白鶴の間で王太子印が落ちたときと、よく似た音だった。
◇
王都の西門は、夜明け前から荷馬車が並ぶ。
アデライドとハンナが着いたとき、東の空はまだ青黒かった。関所の詰所には灯りがともり、窓の奥で若い記録係があくびをかみ殺している。
先月、通行録の写しを取ってくれた若者である。彼はアデライドの顔を見るなり、椅子から半分腰を浮かせた。
「侯爵令嬢さま。また、通行録ですか」
「今日は、お見せするほうですの」
アデライドは受理証の写しと、規則集の該当箇所を書き写した紙を、窓口の台に並べた。若者はそれを読み、読み終えてから、奥の詰所へ走っていく。やがて、白い口髭の関所番長が出てきた。
「令嬢。これは記録院の受理証で間違いないですな」
「間違いございません。受理番号も入っております」
「係争中の登記の妻を王都の外へ出すには、記録院の許可が要る、と」
「第二十二条です」
番長は、口髭を指でしごいた。
「うちは、紙に番号のついたものには逆らわない主義でして」
グラーツ家の紋を打った馬車が西門に着いたのは、それから半刻ほど後のことだ。
四頭立て。御者台に家令。窓には厚い布がかかっている。関所の柵が下りたままなのを見て、家令が御者台から声を張った。
「グラーツ伯爵家である。通されたい」
「奥方さまがご同乗なら、お止めします」
番長が、受理証の写しを掲げて見せる。家令は写しを受け取り、読み、顔色を変え、馬車の扉を叩いた。
扉が開く。
杖が先に下り、それから伯爵が降りてきた。夜明けの冷気のなかでも、黒い上着に皺ひとつない。伯爵は家令の手から写しを取り、目を通した。
そして、柵の向こうに立つアデライドを見る。
「……日付、ですか」
「はい」
「署名ではなく」
「署名は、本物ですので。直しようがございません」
伯爵の落ちくぼんだ目が、ほんのわずかに細くなった。それが笑ったのか怒ったのか、アデライドには判別がつかない。
馬車の窓の布が、内側から少しだけめくれた。
クラリッサの顔がのぞいている。外套の襟を立て、目を赤く腫らしていた。柵の向こうのアデライドを見つけて、口が開く。声にはならない。
アデライドは、目を伏せなかった。
まっすぐクラリッサを見て、ほんの少しだけ頷く。
窓の布が、静かに下りた。
「なるほど」
伯爵は写しを畳み、家令に返した。
「関所番長。われわれは、屋敷へ戻る。記録院の許可が出るまでな」
「そうしていただけますと」
「ヴァイセンブルクのお嬢さん」
馬車の踏み台に足をかけながら、伯爵が言う。
「記録院で、お会いしましょう。書記のオットマーの腰も、そろそろ治る頃合いです。当日の窓口に座っていたのは、あの男ですからね。──あの男が、建国祭の当日に受け付けたと申せば、それは建国祭の当日のことになる」
扉が閉まった。
四頭立ての馬車は、ゆっくりと向きを変え、朝靄の市街へ戻っていく。
ハンナが、長い息を吐いた。
「止まりましたね」
「止まっただけです」
「オットマーって人が、嘘をついたら」
「つくでしょうね」
アデライドは、外套の上から胸のあたりに手を当てた。
内側には、昨日取った写しが三枚入っている。エレオノーレ・フォン・ハルトマン、十九歳。その番号と、隣の番号が二つ。
まだ、誰にも見せていなかった。
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