第三話 通用口
記録院の窓口の役人は、名をルーカスという。
歳は二十四、五といったところか。先月、アデライドが書式十七番を出したときには名乗らなかった。今日は、写しを受け取った彼女がいつまでも窓口の前から動かないので、困ったように自分から名乗る。
「……ルーカス・ヘルトです。何か、ご不審が」
「この受理印の日付ですけれど」
アデライドは写しを台に置き、右下の朱を指で示した。
「建国祭の当日ですわね。記録院は、その日は閉まっているはずです」
ルーカスは朱印をのぞきこみ、拍子抜けしたような顔になる。
「閉まっておりますよ。正面は」
「正面は」
「婚姻の窓口だけ、通用口を開けるんです。建国祭に届を出すと夫婦が添い遂げる、という言い伝えがありまして。毎年、十組ほど来ます。当番の書記が一人出て、昼まで受け付ける決まりで」
アデライドは、しばらく口をつぐんでいる。
「……存じませんでした」
「ご存じないのが普通です。結婚なさる方しか来ませんから」
言ってから、ルーカスはあわてて口を押さえた。婚約を破棄されたばかりの令嬢に向ける言葉ではない、と気づいたらしい。アデライドは気にしない。気にするべきは、そこではなかった。
建国祭の日に婚姻届が受理されていても、何もおかしくはない。昨夜から頭のなかで組み立ててきた一本の筋が、根元から折れる音がする。
「当日の当番は、どなたでしたか」
「当番表は内規なので、お見せできません。……オットマーさんです。古株の書記で」
「お見せできないのに、仰いましたね」
「毎年あの人なんです。院の者なら誰でも知ってます」
「その方に、お話を伺えますか」
「先週から休んでおられます。腰を痛めたとかで」
アデライドは、写しを畳んだ。
先週といえば、グラーツ家の家令がベルク家へ迎えに来た頃である。偶然かもしれず、偶然でないかもしれない。どちらにしても、紙には書かれていないことだ。紙に書かれていないことで、人を責めることはできなかった。
◇
記録院の回廊に、老人がひとり立っていた。
銀の握りの杖に、仕立てのいい黒の上着。背は曲がっておらず、目だけが年相応に落ちくぼんでいる。アデライドが柱の陰を抜けたとき、老人はまるで待ち合わせでもしていたように、帽子を軽く持ち上げた。
「ヴァイセンブルクのお嬢さん」
声は、穏やかである。
「ディートリヒ・フォン・グラーツと申します。妻が、お世話になっているそうで」
ハンナが、アデライドの半歩前へ出ようとした。アデライドはそれを袖で止める。
「お世話というほどのことは、しておりません」
「写しをお取りになったとか。熱心でいらっしゃる」
「公開文書ですので」
「ええ、ええ。わたしの登記の写しを取る者があれば知らせるように、院の者に頼んでありましてね。年寄りは用心深いものです」
伯爵は、悪びれずにそう言った。窓口の役人に小銭を握らせてある、という意味だ。父が禁じた四つのうちの一つを、この男は挨拶のように口にする。
「わたしも、あなたの件の断罪録を取り寄せて読みましたよ。銀貨三枚の窓口のお話は、年寄りの耳にも入ります。──感心いたしました」
「恐れ入ります」
「読まずに署名した者は、署名したことに責任を負う。あなたは、殿下にそれを教えて差し上げた」
伯爵は杖の先で、回廊の石を一度だけ突いた。
「クラリッサは、読まずに署名いたしました」
アデライドの背中を、冷たいものが下りていく。
「同じ理屈を、妻にも当てはめていただけるものと思っております。あなたが、筋の通った方であるならば」
反論が、出てこない。
出てこないことに、アデライド自身がいちばん驚いていた。王太子の前では三つ数えることができた弁明の道筋が、この老人の前では一つも見えない。それはそうだ。この男が口にしたのは、ひと月前に彼女自身が作った理屈なのだから。
「……伯爵は、筋の通ったお話をなさいます」
「年寄りの取り柄です」
伯爵は帽子をかぶり直した。
「妻は、明後日の朝、西の領地へ連れて帰ります。葡萄の芽吹きを見せてやりたい。──ああ、そういえば」
立ち去りかけて、振り返る。
「お母上のご容態は、いかがです。春は病人に障ると申しますから。どうか、お大事に」
杖の音が、回廊の奥へ遠ざかっていった。
ハンナが、低く唸る。
「お嬢様。あたし、いまのは脅しだと思います」
「脅しですね」
「なんで何も言い返さなかったんですか」
「言い返すことが、なかったからです」
アデライドは、自分の手を見た。指先が、白くなるほど写しを握っている。
◇
屋敷に戻ると、クラリッサからの手紙が届いていた。
ベルク家の下働きの少女が、市場へ行くふりをして裏口まで持ってきたのだという。便箋は一枚きりで、字が乱れていた。
──明後日、西へ発ちます。父が、もういいと言いました。あなたにも、もういいです。銀貨は返さなくていいから。ごめんなさい。
アデライドは手紙を二度読み、三度目は読まずに畳んだ。
その夜は、母の寝室で過ごした。
フレデリカは眠っているとばかり思っていたが、アデライドが椅子に座ると、目を閉じたまま口を開く。
「何かありましたね」
「なぜ、おわかりになるのですか」
「あなたが、黙って座るからです。何もない日のあなたは、草の本数を報告します」
アデライドは、少し笑った。笑ってから、回廊でのことを話す。読まずに署名した者は責任を負う。その理屈が、そっくりそのまま自分に返ってきたこと。
母は、しばらく何も言わない。
「それで、あなたは自分の理屈に負けたと思っているの」
「……はい」
「殿下の断罪録を、あなたはどうやって直したのでしたか」
「四行を、一行ずつ」
「殿下のご署名を、直しましたか」
アデライドは、顔を上げた。
「いいえ」
「では、殿下の何が間違っていたのです」
「……書かれた中身です。日付と、場所と、罪状と、証人。署名は、本物でした。本物だったから、あの方は逃げられなかった」
「ベルクの娘さんの署名も、本物なのでしょう」
「はい」
「なら、署名は放っておきなさい。本物なのだから、直しようがありません」
母が、薄く目を開ける。
「伯爵は、署名の話しかなさらなかったのでしょう。署名の話しかしない人は、ほかの行を読まれたくない人ですよ。──わたくしはあなたのお父様と三十年暮らして、それだけは覚えました」
◇
アデライドは自室に戻り、燭台を二本に増やした。
婚姻登記簿の写しを、卓の中央に広げる。
王太子の報告書を読んでいた頃と同じやり方で、上から一字ずつ読んでいった。署名の話は、母の言うとおり放っておく。本物の署名は、直しようがない。ならば、署名以外の行だ。
夫の名。本物。
妻の名。本物。
妻の年齢、十九。受理日が本当なら、これも本物である。
父の同意の署名。本物だろう。泣きながら書いたかどうかは、紙には出ない。
受理日。建国祭当日。通用口が開いていたのなら、ありえる日付だ。
受理印。朱の丸。記録院のもので間違いない。
どの行も、崩れない。
燭台の蝋が一段落ちたとき、ハンナが湯を持って入ってきた。ハンナは写しをのぞきこみ、眉を寄せる。
「お嬢様。この、左上の小さい字、なんですか」
「どれです」
「ここ。第、四百、なんとか号って」
アデライドは、その字に目を落とした。
受理番号。
紙の左上、余白の隅に、書記の手で小さく書き入れられている。あまりに小さく、あまりに事務的で、読むものだとさえ思っていなかった。
第四百十二号。
「……受理番号です。記録院で受け付けた書類には、すべてこれが振られます。窓口ごとではなく、院全体の通し番号で」
「通し番号って、順番ってことですか」
「ええ。受付簿に一行ずつ記入して、上から順に」
言いながら、アデライドは自分の声が遠くなるのを感じていた。
宰相ヴェルナーの言葉を思い出す。書式十七番は受理番号がつく。受理番号のついたものを、理由なく握り潰すことはできない。──番号とは、そういうものだ。後から一行だけ抜くことも、差しこむこともできない。
日付は、ペン先ひとつで書ける。
だが番号は、前後の紙と並んでいる。
「ハンナ」
「はい」
「明日の朝一番に、記録院へ参ります」
「またですか。何を取るんです」
「隣の紙を」
アデライドは写しの左上を、指先で押さえた。
「四百十一番と、四百十三番。写しは一通銅貨二枚ですから、合わせて四枚ですね」
ハンナは、よくわからないという顔をした。それでも頷く。この侍女は、わからないときほど早く頷くのだった。
窓の外で、夜番の鐘が一つ鳴った。
明後日の朝まで、あと一日と少し。
紙は、嘘をつかない。だが一枚きりの紙は、嘘をついていても誰にも気づかれない。
隣に並んだ紙だけが、それを嘘つきにできる。
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