↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄は結構ですので、その断罪書にご署名をいただけますか 〜紙一枚で、片をつけます〜  作者: 桜野結


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/29

第二話 目を伏せた方

 夜会から、ひと月が過ぎた。


 王都の春は、石畳の隙間からやってくる。ヴァイセンブルク邸の前庭でも、敷石の継ぎ目に小さな草が並びはじめていた。庭師は三人のうち二人が辞めたので、抜く者がいない。


 アデライドは、それを抜かずにおくことにした。母の寝室の窓から、ちょうど見える位置にある。


「今朝は、四本になっておりました」


 寝台の母に報告すると、フレデリカは目を細めた。


「数えているの」


「ほかに数えるものがございませんので」


 嘘ではない。断罪録の訂正が済んでから、アデライドの机は空になった。王太子妃として読むはずだった書類は、もう一枚も回ってこない。社交界の招待状は途絶えたままで、謝罪の使者が来たのは王家からだけ。八年ぶんの予定が、一晩で白紙になっている。


 白紙というものは、思っていたより重い。


「あなた、暇なのね」


「はい」


「暇な娘は、ろくなことをしません」


「存じております。先月、少しばかりいたしました」


 母は笑いかけて、咳きこんだ。アデライドは背中をさすり、水を含ませる。骨の形は、ひと月前と変わっていない。悪くもなっていないことが、今は救いだった。


◇


 その夜、ハンナが寝室の扉を叩いたのは、十一時の鐘のあとである。


「お嬢様。お客様です」


「こんな時刻に」


「裏口からいらっしゃいました。頭から外套をかぶって」


 ハンナの声には、はっきりと棘があった。


「ベルク伯爵家の、クラリッサ様です」


 アデライドは、髪を解く手を止めた。


 クラリッサ・フォン・ベルク。二十歳。十二の年の同じ春に、王城の妃教育の間へ上がった三人の令嬢のひとりである。王太子妃に選ばれたのはアデライドだけだったが、残る二人もそのまま王妃付きの行儀見習いとして城に残った。刺繍の針目を競い、古典の暗誦を競い、叱られるときは三人並んで叱られる。そういう八年だった。


 隣にいた人である。


 そして夜会のあと、中央通りの菓子店の前ですれ違ったとき、真っ先に目を伏せた人でもあった。


「お通しして」


「お嬢様」


「応接間ではなく、ここへ。寒いでしょうから、湯を」


 ハンナは口を開けて、閉じた。言いたいことが三つほどあったらしい。全部飲みこんで、足音だけ荒く下りていく。


◇


 クラリッサは、外套を脱がなかった。


 暖炉の前の椅子を勧めても、座らない。扉のそばに立ったまま、両手で外套の前を握りしめている。濡れた裾から、床へ水が落ちていた。外は雨になっているらしい。


「……ごめんなさい」


 第一声が、それだった。


「何に対してでしょう」


 アデライドが訊くと、クラリッサは唇を噛んだ。


「全部。あの夜、何も言わなかったこと。そのあと、会いに来なかったこと。菓子屋の前で──」


「目を伏せられましたね」


「……ええ」


「憶えております。ほかにも何人か伏せられましたけれど、あなたが一番お早うございました」


 クラリッサの顔から、血の気が引いた。ハンナが湯の盆を置きながら、小さく鼻を鳴らす。


 アデライドに、責めているつもりはない。事実を言ったまでだ。もっとも、責めていないことと許していることは、同じではなかった。


「謝りにいらしたのでしたら、承りました。お帰りの馬車は──」


「違うの」


 クラリッサが顔を上げた。


「謝りに来たんじゃない。謝るだけなら、手紙で済むもの。あなたにこんなことを頼める立場じゃないのは、わかってる。わかってるけど──」


 声が裏返る。


「わたし、結婚してるらしいの」


 暖炉の薪が、ぱちりと爆ぜた。


◇


 ようやく椅子に座らせ、湯を持たせ、話を順に聞き出すまで、半刻かかった。


 昨日の午後、ベルク伯爵家に客が来たという。グラーツ伯爵家の家令で、用件は奥方様のお迎え。


 奥方様とは誰かと、クラリッサは訊いた。家令は丁寧に一礼し、あなた様でございます、と答えたそうだ。


「ディートリヒ・フォン・グラーツ伯爵。知ってるでしょう」


「存じております」


 六十四歳。西の葡萄畑の大半を持つ家の当主で、奥方を二人亡くしている。一人目は病で、二人目は階段から落ちて。どちらも嫁いで三年と持たなかった。宮廷でそれを口にする者はいない。ただ、あの家から縁談が来たと聞くと、令嬢たちは扇の陰で顔を見合わせる。


「家令は、写しを持ってた。記録院の婚姻登記簿の写し。わたしの名前と、あの人の名前と、父の同意の署名と、それから──」


 クラリッサは、湯の器を握る指に力をこめた。


「わたしの署名があった」


「ご自分の筆跡でしたか」


「……わたしの字だった」


 アデライドは黙って続きを待つ。


「父を問い詰めたわ。そうしたら、グラーツ家にお金を借りてて、返す期限がとっくに過ぎてて、それで──泣きながら、すまないって。すまないって、そればっかり」


「お父上は、いつ届を出したとおっしゃいましたか」


「言わないの。訊いても、すまないしか言わない」


「では、ご自分はいつ署名なさいましたか」


 クラリッサは、答えない。


 長い沈黙のあとで、器を膝の上に下ろした。湯はとうに冷めている。


「……あの夜」


「あの夜、とは」


「白鶴の間の夜。あなたが、断罪された夜」


 アデライドの指先が、わずかに冷えた。


「屋敷に帰ったら、父が書斎で待ってた。紙を一枚出して、ここに署名しなさいって。ヴァイセンブルク家とは今後いっさい交わりません、っていう誓約書だから、って。王家に目をつけられたら、ベルクの家なんて一息で飛ぶから、って」


 クラリッサの声が、細くなっていく。


「わたし、読まなかった」


 ハンナが、盆を取り落としかけた。


「読みたくなかったの。あなたと縁を切る紙なんて。だから見ないで、名前だけ書いた。早く終わらせたくて。──それが、婚姻の本人同意書だった」


◇


 アデライドは、しばらく何も言えずにいた。


 暖炉の火を見る。ひと月前、父の書斎で燭台の火を見ていたときと、同じ目をしているのが自分でもわかる。


 あの夜、同じ時刻に、この国でもう一人、読まずに署名した人間がいたのだ。


 一人は王太子で、三百人の前で。もう一人はこの娘で、父親の書斎で。片方はアデライドを断罪する紙に名を書き、もう片方はアデライドから逃げるために、自分を売る紙に名を書いた。


 同じ夜。同じ羽根ペン。どちらも、読んでいない。


 笑うべきなのかどうか、アデライドには判断がつかなかった。


「……軽蔑するでしょう」


 クラリッサが言う。


「いたしません」


「嘘」


「わたくし、嘘はあまり上手ではございませんの。──軽蔑はいたしません。ただ、少し呆れております」


 クラリッサは、泣き笑いのような顔をした。


「あなたらしい」


「八年、隣におりましたので」


 言ってから、アデライドは自分の口が勝手に動いたことに気づいた。取り消す気には、なれない。


◇


「それで、わたくしに何をお望みですか」


 クラリッサは膝の上で手を組み直した。


「……噂を聞いたの。あなたが、記録院の窓口で、王太子殿下を」


「訂正を申し立てただけですわ」


「それ。それを、わたしにも教えてほしい。やり方を。どこへ行って、何を書けばいいのか、何もわからないの。家の者には相談できない。父の友人に相談したら、父に伝わる。母は、グラーツ家なら暮らしには困らないって言うし」


「お暮らしには、困らないでしょうね」


「二人亡くなってるのよ」


「存じております」


 アデライドは立ち上がり、書き物机の抽斗を開けた。先月から使わずに置いてある、記録院の書式の束がそこにある。書式十七番の余りが三枚。そのほかに閲覧の請求、写しの交付、原本照合の書式。窓口で一式もらってきたまま、使い道のなかったものだ。


「お教えするのは、かまいません」


「本当に?」


「ただし、教わってもおできにならないと思います」


 クラリッサの顔がこわばった。


「どうして」


「あなたが届の写しを取りに記録院へ行けば、その日のうちにお父上の耳に入ります。お父上の耳に入れば、グラーツ伯爵に伝わる。伯爵家の家令が迎えに来ているのでしょう。──次は迎えではなく、馬車をよこします」


 外の雨音が、一段強くなる。


「わたくしが参ります」


 アデライドは言った。


「わたくしは、いま王都でいちばん暇な令嬢ですので。記録院の窓口の者とも、顔見知りになりましたし」


「……でも」


「それから、お代をいただきます」


 クラリッサが目を瞬く。ハンナも、盆を抱えたまま瞬いている。


「お代」


「銀貨三枚」


 アデライドは書式の束を机に置いた。


「わたくしが先月、記録院に払った手数料と同じ額です。施しで動いたと思われるのは、あなたにとっても、わたくしにとっても、よろしくありません。わたくしは、あなたを許したから動くのではございません。──紙に、間違ったことが書かれているから動くのです」


「許して、ないのね」


「目を伏せられましたので」


 クラリッサは、しばらくアデライドを見ていた。それから外套の内側を探り、小さな巾着を出す。数えもせず、中身を卓にあけた。銀貨が七枚と、銅貨がいくらか転がる。


「三枚です」


「全部持っていって」


「三枚です。残りは、しまってくださいませ。あなたはこれから、ご自分で使うお金が要るようになります」


 クラリッサは、三枚だけを押し出した。その指が、まだ震えている。


◇


 翌朝、アデライドは父に話を通した。


 侯爵は書斎で報告を黙って聞き終え、最後にひとつだけ訊く。


「ベルクの娘は、おまえに何をした」


「目を伏せました」


「それだけか」


「それだけです」


 父は、ふん、と鼻を鳴らした。


「剣と毒と、人を雇うのと、金で口を買うのは、なしだ。前と同じだぞ」


「承知しております」


「グラーツは厄介だ。あの家は、自分の畑に出た虫を、畑ごと焼く」


「存じております。焼かれる前に、紙を取ってまいります」


 父はもう一度鼻を鳴らし、手元の書類に目を落とす。退がってよいという合図である。扉に手をかけたところで、背中に声が来る。


「アデライド」


「はい」


「……銀貨三枚は、安すぎる」


 アデライドは振り返らずに答えた。


「窓口の値段ですわ、お父様」


◇


 王立記録院の閲覧室は、ひと月前と何ひとつ変わっていない。


 高い窓に、長い卓。インクと古紙の匂い。窓口の役人も同じ顔で、アデライドを見ると一瞬だけ背筋を伸ばした。先月の書式十七番を受理した男だ。


「婚姻登記簿の写しを一通。ベルク伯爵家クラリッサ嬢と、グラーツ伯爵家ディートリヒ卿のものを」


「請求者は」


「わたくしです。登記簿は公開文書ですので、請求者の続柄は問われないはずですわね」


「……問いません」


 役人は書式を受け取り、奥の書庫へ消えた。戻るまで、四半刻。


 差し出された写しは、一枚きりである。


 夫、ディートリヒ・フォン・グラーツ、六十四歳。妻、クラリッサ・フォン・ベルク、十九歳。妻の父ベルク伯爵の同意の署名。本人の同意の署名。昨夜聞いたとおりの内容が、書記の整った字で並んでいた。


 アデライドは、クラリッサの署名を見た。


 確かに彼女の字だ。妃教育の間で、八年隣から見てきた字である。ただ、最後の一画がいつもより長く流れていた。早く終わらせたくて、と言った声を思い出す。


 それから、紙の右下に目を移した。


 受理印。


 朱の丸い印のなかに、日付が刻まれている。


 アデライドは、その日付を二度読んだ。


 三度目は、読まない。読まなくても、忘れようのない日付だったからだ。


 妻の年齢が十九と書かれている理由も、それで分かる。クラリッサの誕生日は、建国祭の翌日なのだ。二十歳になった娘の婚姻には、本人が窓口に出頭しなければならない。十九のうちなら、父の同意と本人の署名で足りる。


 届は、十九歳の最後の日に受理されていた。


 すなわち、建国祭当日。


 白鶴の間の夜会が明けた、その朝。


 王都じゅうの役所が扉を閉め、役人たちが家族を連れて祭りの行列を見に出る日。──記録院の正面の扉が、一年でただ一日、閉ざされている日だった。



お読みいただき、ありがとうございました!

皆様にお願いです

ブックマークや下の【☆☆☆☆☆】をタップして【★★★★★】に

応援していただけますと励みになります! よろしくお願いいたします(^^♪



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。