第二話 目を伏せた方
夜会から、ひと月が過ぎた。
王都の春は、石畳の隙間からやってくる。ヴァイセンブルク邸の前庭でも、敷石の継ぎ目に小さな草が並びはじめていた。庭師は三人のうち二人が辞めたので、抜く者がいない。
アデライドは、それを抜かずにおくことにした。母の寝室の窓から、ちょうど見える位置にある。
「今朝は、四本になっておりました」
寝台の母に報告すると、フレデリカは目を細めた。
「数えているの」
「ほかに数えるものがございませんので」
嘘ではない。断罪録の訂正が済んでから、アデライドの机は空になった。王太子妃として読むはずだった書類は、もう一枚も回ってこない。社交界の招待状は途絶えたままで、謝罪の使者が来たのは王家からだけ。八年ぶんの予定が、一晩で白紙になっている。
白紙というものは、思っていたより重い。
「あなた、暇なのね」
「はい」
「暇な娘は、ろくなことをしません」
「存じております。先月、少しばかりいたしました」
母は笑いかけて、咳きこんだ。アデライドは背中をさすり、水を含ませる。骨の形は、ひと月前と変わっていない。悪くもなっていないことが、今は救いだった。
◇
その夜、ハンナが寝室の扉を叩いたのは、十一時の鐘のあとである。
「お嬢様。お客様です」
「こんな時刻に」
「裏口からいらっしゃいました。頭から外套をかぶって」
ハンナの声には、はっきりと棘があった。
「ベルク伯爵家の、クラリッサ様です」
アデライドは、髪を解く手を止めた。
クラリッサ・フォン・ベルク。二十歳。十二の年の同じ春に、王城の妃教育の間へ上がった三人の令嬢のひとりである。王太子妃に選ばれたのはアデライドだけだったが、残る二人もそのまま王妃付きの行儀見習いとして城に残った。刺繍の針目を競い、古典の暗誦を競い、叱られるときは三人並んで叱られる。そういう八年だった。
隣にいた人である。
そして夜会のあと、中央通りの菓子店の前ですれ違ったとき、真っ先に目を伏せた人でもあった。
「お通しして」
「お嬢様」
「応接間ではなく、ここへ。寒いでしょうから、湯を」
ハンナは口を開けて、閉じた。言いたいことが三つほどあったらしい。全部飲みこんで、足音だけ荒く下りていく。
◇
クラリッサは、外套を脱がなかった。
暖炉の前の椅子を勧めても、座らない。扉のそばに立ったまま、両手で外套の前を握りしめている。濡れた裾から、床へ水が落ちていた。外は雨になっているらしい。
「……ごめんなさい」
第一声が、それだった。
「何に対してでしょう」
アデライドが訊くと、クラリッサは唇を噛んだ。
「全部。あの夜、何も言わなかったこと。そのあと、会いに来なかったこと。菓子屋の前で──」
「目を伏せられましたね」
「……ええ」
「憶えております。ほかにも何人か伏せられましたけれど、あなたが一番お早うございました」
クラリッサの顔から、血の気が引いた。ハンナが湯の盆を置きながら、小さく鼻を鳴らす。
アデライドに、責めているつもりはない。事実を言ったまでだ。もっとも、責めていないことと許していることは、同じではなかった。
「謝りにいらしたのでしたら、承りました。お帰りの馬車は──」
「違うの」
クラリッサが顔を上げた。
「謝りに来たんじゃない。謝るだけなら、手紙で済むもの。あなたにこんなことを頼める立場じゃないのは、わかってる。わかってるけど──」
声が裏返る。
「わたし、結婚してるらしいの」
暖炉の薪が、ぱちりと爆ぜた。
◇
ようやく椅子に座らせ、湯を持たせ、話を順に聞き出すまで、半刻かかった。
昨日の午後、ベルク伯爵家に客が来たという。グラーツ伯爵家の家令で、用件は奥方様のお迎え。
奥方様とは誰かと、クラリッサは訊いた。家令は丁寧に一礼し、あなた様でございます、と答えたそうだ。
「ディートリヒ・フォン・グラーツ伯爵。知ってるでしょう」
「存じております」
六十四歳。西の葡萄畑の大半を持つ家の当主で、奥方を二人亡くしている。一人目は病で、二人目は階段から落ちて。どちらも嫁いで三年と持たなかった。宮廷でそれを口にする者はいない。ただ、あの家から縁談が来たと聞くと、令嬢たちは扇の陰で顔を見合わせる。
「家令は、写しを持ってた。記録院の婚姻登記簿の写し。わたしの名前と、あの人の名前と、父の同意の署名と、それから──」
クラリッサは、湯の器を握る指に力をこめた。
「わたしの署名があった」
「ご自分の筆跡でしたか」
「……わたしの字だった」
アデライドは黙って続きを待つ。
「父を問い詰めたわ。そうしたら、グラーツ家にお金を借りてて、返す期限がとっくに過ぎてて、それで──泣きながら、すまないって。すまないって、そればっかり」
「お父上は、いつ届を出したとおっしゃいましたか」
「言わないの。訊いても、すまないしか言わない」
「では、ご自分はいつ署名なさいましたか」
クラリッサは、答えない。
長い沈黙のあとで、器を膝の上に下ろした。湯はとうに冷めている。
「……あの夜」
「あの夜、とは」
「白鶴の間の夜。あなたが、断罪された夜」
アデライドの指先が、わずかに冷えた。
「屋敷に帰ったら、父が書斎で待ってた。紙を一枚出して、ここに署名しなさいって。ヴァイセンブルク家とは今後いっさい交わりません、っていう誓約書だから、って。王家に目をつけられたら、ベルクの家なんて一息で飛ぶから、って」
クラリッサの声が、細くなっていく。
「わたし、読まなかった」
ハンナが、盆を取り落としかけた。
「読みたくなかったの。あなたと縁を切る紙なんて。だから見ないで、名前だけ書いた。早く終わらせたくて。──それが、婚姻の本人同意書だった」
◇
アデライドは、しばらく何も言えずにいた。
暖炉の火を見る。ひと月前、父の書斎で燭台の火を見ていたときと、同じ目をしているのが自分でもわかる。
あの夜、同じ時刻に、この国でもう一人、読まずに署名した人間がいたのだ。
一人は王太子で、三百人の前で。もう一人はこの娘で、父親の書斎で。片方はアデライドを断罪する紙に名を書き、もう片方はアデライドから逃げるために、自分を売る紙に名を書いた。
同じ夜。同じ羽根ペン。どちらも、読んでいない。
笑うべきなのかどうか、アデライドには判断がつかなかった。
「……軽蔑するでしょう」
クラリッサが言う。
「いたしません」
「嘘」
「わたくし、嘘はあまり上手ではございませんの。──軽蔑はいたしません。ただ、少し呆れております」
クラリッサは、泣き笑いのような顔をした。
「あなたらしい」
「八年、隣におりましたので」
言ってから、アデライドは自分の口が勝手に動いたことに気づいた。取り消す気には、なれない。
◇
「それで、わたくしに何をお望みですか」
クラリッサは膝の上で手を組み直した。
「……噂を聞いたの。あなたが、記録院の窓口で、王太子殿下を」
「訂正を申し立てただけですわ」
「それ。それを、わたしにも教えてほしい。やり方を。どこへ行って、何を書けばいいのか、何もわからないの。家の者には相談できない。父の友人に相談したら、父に伝わる。母は、グラーツ家なら暮らしには困らないって言うし」
「お暮らしには、困らないでしょうね」
「二人亡くなってるのよ」
「存じております」
アデライドは立ち上がり、書き物机の抽斗を開けた。先月から使わずに置いてある、記録院の書式の束がそこにある。書式十七番の余りが三枚。そのほかに閲覧の請求、写しの交付、原本照合の書式。窓口で一式もらってきたまま、使い道のなかったものだ。
「お教えするのは、かまいません」
「本当に?」
「ただし、教わってもおできにならないと思います」
クラリッサの顔がこわばった。
「どうして」
「あなたが届の写しを取りに記録院へ行けば、その日のうちにお父上の耳に入ります。お父上の耳に入れば、グラーツ伯爵に伝わる。伯爵家の家令が迎えに来ているのでしょう。──次は迎えではなく、馬車をよこします」
外の雨音が、一段強くなる。
「わたくしが参ります」
アデライドは言った。
「わたくしは、いま王都でいちばん暇な令嬢ですので。記録院の窓口の者とも、顔見知りになりましたし」
「……でも」
「それから、お代をいただきます」
クラリッサが目を瞬く。ハンナも、盆を抱えたまま瞬いている。
「お代」
「銀貨三枚」
アデライドは書式の束を机に置いた。
「わたくしが先月、記録院に払った手数料と同じ額です。施しで動いたと思われるのは、あなたにとっても、わたくしにとっても、よろしくありません。わたくしは、あなたを許したから動くのではございません。──紙に、間違ったことが書かれているから動くのです」
「許して、ないのね」
「目を伏せられましたので」
クラリッサは、しばらくアデライドを見ていた。それから外套の内側を探り、小さな巾着を出す。数えもせず、中身を卓にあけた。銀貨が七枚と、銅貨がいくらか転がる。
「三枚です」
「全部持っていって」
「三枚です。残りは、しまってくださいませ。あなたはこれから、ご自分で使うお金が要るようになります」
クラリッサは、三枚だけを押し出した。その指が、まだ震えている。
◇
翌朝、アデライドは父に話を通した。
侯爵は書斎で報告を黙って聞き終え、最後にひとつだけ訊く。
「ベルクの娘は、おまえに何をした」
「目を伏せました」
「それだけか」
「それだけです」
父は、ふん、と鼻を鳴らした。
「剣と毒と、人を雇うのと、金で口を買うのは、なしだ。前と同じだぞ」
「承知しております」
「グラーツは厄介だ。あの家は、自分の畑に出た虫を、畑ごと焼く」
「存じております。焼かれる前に、紙を取ってまいります」
父はもう一度鼻を鳴らし、手元の書類に目を落とす。退がってよいという合図である。扉に手をかけたところで、背中に声が来る。
「アデライド」
「はい」
「……銀貨三枚は、安すぎる」
アデライドは振り返らずに答えた。
「窓口の値段ですわ、お父様」
◇
王立記録院の閲覧室は、ひと月前と何ひとつ変わっていない。
高い窓に、長い卓。インクと古紙の匂い。窓口の役人も同じ顔で、アデライドを見ると一瞬だけ背筋を伸ばした。先月の書式十七番を受理した男だ。
「婚姻登記簿の写しを一通。ベルク伯爵家クラリッサ嬢と、グラーツ伯爵家ディートリヒ卿のものを」
「請求者は」
「わたくしです。登記簿は公開文書ですので、請求者の続柄は問われないはずですわね」
「……問いません」
役人は書式を受け取り、奥の書庫へ消えた。戻るまで、四半刻。
差し出された写しは、一枚きりである。
夫、ディートリヒ・フォン・グラーツ、六十四歳。妻、クラリッサ・フォン・ベルク、十九歳。妻の父ベルク伯爵の同意の署名。本人の同意の署名。昨夜聞いたとおりの内容が、書記の整った字で並んでいた。
アデライドは、クラリッサの署名を見た。
確かに彼女の字だ。妃教育の間で、八年隣から見てきた字である。ただ、最後の一画がいつもより長く流れていた。早く終わらせたくて、と言った声を思い出す。
それから、紙の右下に目を移した。
受理印。
朱の丸い印のなかに、日付が刻まれている。
アデライドは、その日付を二度読んだ。
三度目は、読まない。読まなくても、忘れようのない日付だったからだ。
妻の年齢が十九と書かれている理由も、それで分かる。クラリッサの誕生日は、建国祭の翌日なのだ。二十歳になった娘の婚姻には、本人が窓口に出頭しなければならない。十九のうちなら、父の同意と本人の署名で足りる。
届は、十九歳の最後の日に受理されていた。
すなわち、建国祭当日。
白鶴の間の夜会が明けた、その朝。
王都じゅうの役所が扉を閉め、役人たちが家族を連れて祭りの行列を見に出る日。──記録院の正面の扉が、一年でただ一日、閉ざされている日だった。
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