第99話 棘の視点
『無理をしなくていい』
ふと脳裏に、いつかセレンが注いでくれた優しい声と言葉が鮮やかに蘇ってきた。
ナナセは手元にある、ほとんど何も書き込まれていない真っ白な紙を見つめる。
文字で埋まっていないその紙面は、決して自分が手を抜いた証拠などではなかった。
今の自分には、体を壊してまで、無理をしてまで書かなければならない過酷な仕事が存在しないのだ。
目の前の真っ白な紙は、まるでセレンのくれたあの温かな言葉を、そのまま証明しているかのようだった。
ナナセは深く、小さく息を吐き出すと、完成した書類を両手で丁寧に持ち上げた。
周囲を見渡せば、まだ多くの使役妖精たちが必死な表情で報告書を書き続けている。
ナナセはその忙しない空間の隙間を静かに縫うようにして、受付の提出場所へと向かって歩き出した。
その途中――。
ふと、刺すような強い視線を感じて、ナナセは思わず顔を上げた。
すれ違う群衆の向こう側。
あの、かつて自身が身を置いていた第五部隊の使役妖精たちが、じっとこちらを見つめていた。
(……あ)
ナナセも逃げ出すことなく、足を止めることもなく、そちらへとまっすぐ視線を向ける。
視線と視線が、静かに交差した。
一人の妖精が、何かを詰問しようとするかのように口元をかそけく開く。
けれど――。
その妖精は、ナナセの姿や胸元にある何かに気づいたように、ふっと不自然に口を閉ざした。
そして気まずそうに、すぐに視線を逸らしていったのだった。
「……」
相手が何を言いかけ、なぜ言葉を飲み込んだのか、ナナセには分からない。
けれど、自分が何を思われているのかだけは、なんとなく分かる気がした。
きっと、嫌味を言われるのだと覚悟していた。
自分が壊れてあの部隊を離脱したことで、五部隊には少なからず業務の皺寄せがいったはずだ。
今まで自分がこなしていた雑務を、残された誰かが引き受けなければならなくなっただろう。
自分は過酷な労働から一人だけ逃げ出した、ずるい妖精。
きっと周りからは、そう見られているに違いなかった。
「……」
胸の奥が、ぎゅっと冷たく押し潰されるように縮み上がる。
ナナセはそっと視線を落とした。
怒りも湧かない。言い返す言葉など、何一つ持ち合わせてはいなかった。
言い返したいとすら、思わなかった。
ただ――。
無性に、セレンに会いたくなった。
「……早く帰ろう」
誰にも聞こえないほどの小さな声で、ぽつりと呟く。
ナナセは提出する書類を胸元で抱え直すと、まとわりつく過去の影を振り払うように、足早にその場をあとにした。
あたたかな彼が待っている、自分の本当の居場所へと帰るために。




