第9話 上を目指す人
キサは閉じた報告書を、しばらく愛おしむように見つめていた。
重く沈み込んだ室内の空気を察したのか、小さく息を吐き出す。
「……まぁ」
その一言に、フィリスたちが顔を上げた。
「第五部隊って、もともと部隊の中ではそんなに上のほうじゃないんだ」
「……そうなのか」
フィリスが尋ねる。
「うん。もちろん普通に責任感を持って任務をこなしてる人たちもいるけどね」
キサは苦笑した。
「上に上がりたい人間も多い。自分の実力を手っ取り早く認めさせるためなら、使えるものは何でも使う。そういう人間がいても、別におかしくない環境だった」
ナギの表情が苦々しく険しくなる。
「……ナナセの能力が利用された、ってこと?」
「そう」
キサは静かに頷いた。
「ナナセは、五部隊にいた頃から能力だけなら群を抜いて高かったんだ」
「そうなの?」
「うん。ひとつ、飛び抜けてた」
その言葉に、ソラトが絶句して黙り込む。
「魔力の保有量も規格外。結界の維持能力も高いし、監視魔法との相性も抜群。しかも使役妖精だから、契約者側からすれば自分の魔力を際限なく補助してくれる最高のリソースだ」
キサは少し悲しそうに目を伏せた。
「だから……使えると思われちゃったんだよ」
「……それで、壊れるまで酷使された」
ヒヨリが呟く。
「うん」
短い返事。それからキサは、どこか切なそうに目を細めた。
「本人が頑張ったから、というより。頑張れてしまったから」
誰も言葉を返せなかった。
できる。まだできる。もう少しできる。
そうやって限界を超えて踏ん張り続けた誠実さが、すべて利用されていったのだろう。
「じゃあ、ナナセがセレンに配属されたのって……」
ナギが言いかけると、キサはセレンへ視線を向けた。
「たぶん、上の人たちなりの配慮だったんじゃないかな」
「配慮?」
「うん」
キサは頷く。
「セレンたちの部隊は、アルカの中でも最上位の特別部隊でしょ」
「そうだね」
「ここなら、ナナセを無理に使う必要がない」
キサの視線が、まっすぐセレンを捉える。
「そもそも、セレンは使役妖精がいなくても一人で戦える。フィリスたちだって、ナナセ一人に命や過酷な役割を背負わせる必要がない」
「……」
「だから、とりあえずここに置いたんだと思う」
ナギが目を瞬かせた。
「とりあえず……?」
「そう。適切な保護先や次の配属が決まるまで、少なくとも絶対に安全な場所に置いておこうってね」
キサはぽつりと苦笑した。
「たぶん、上の人たちが組織の枠組みの中でできる、精一杯の配慮だったんだと思う」
それは、あまりにも事務的で冷淡な配慮だった。
けれど――あの恐ろしい五部隊に戻されるよりは、遥かにマシな環境だった。
「セレンにしてみれば、いらない使役妖精を突然押し付けられたって感じだったかもしれないけど」
キサが柔らかく笑う。
「ナナセにとっては、きっと全然違うんじゃないかな」
セレンは無言のまま、黙って話を聞いていた。
今日のナナセの姿が、鮮明に脳裏に浮かぶ。
自分の肩の上に乗せられたまま、戸惑っていた姿。
何かしなければと、必死に周囲を監視していた目。
そして――『指示をいただかなくて、本当に大丈夫でしょうか?』と尋ねてきた声。
「……」
セレンは静かに息を吐いた。
「本人が悪いわけじゃないのにね」
キサは悲しそうに報告書へ目を落とす。
「そのズバ抜けた才能を、ただ都合よく使われちゃったんだ」
それ以上、誰も責める言葉を持たなかった。
才能があった。役に立った。だから限界まで擦り減らされた。ただ、それだけのこと。
「……じゃあ」
ナギがぽつりと呟く。
「今のナナセに必要なのって、命令でも仕事でもないんだな」
キサは答えず、ただ静かに、深く頷いた。
セレンは俯いたまま、机の上の報告書の表紙を見つめていた。
そこに並ぶ冷機な文字が、痛いほど重く感じられた。
そして、セレンはふと気づく。
今日、自分の肩に乗っていた時間。
自分はナナセに一度も魔法を使わせなかった。
一度も命令を与えなかった。
それなのに――ナナセは逃げ出さず、最後まで自分の隣にいた。
何も命じられないことに不安を覚えながらも、セレンの肩の上に留まり続けていたのだ。
「……」
セレンは固く目を閉じる。
自分が今まで「必要ない」「面倒だ」と突っぱねていたもの。
それは、もしかすると。
ナナセにとっては人生で初めて与えられた――『何もしなくても、ここにいていい時間』だったのかもしれない。




