第83話 静寂の吐露
「……眠れそう?」
頭上から、セレンの低く優しい声が降ってきた。
「……はい」
ナナセが小さく頷き、セレンに気を使って身体を起こそうとする。
「もう大丈夫です。ソファに戻ります」
「今日はここで寝て」
「え……?」
立ち上がろうとしたナナセの肩を、セレンがそっと制した。
「ここでいいから」
「でも……」
「いいの」
静かな声だった。
ナナセは少し驚いたまま、セレンの促すまま再びベッドへと身体を横たえる。
セレンもそのすぐ隣へ腰を下ろした。
そして――まるでそれが当たり前のことであるかのように、ナナセの小さな身体をそっと腕の中へ抱き寄せる。
「……」
ナナセは目を瞬かせた。
その細い身体を腕の中へ優しく収めながら、セレンはふうっと静かに息を吐き出す。
「……焦った」
「え?」
ナナセが不思議そうにセレンの顔を見上げた。
セレンはほんの少しだけ目元を伏せ、夜の暗闇を見つめる。
「ナナセを廊下で見つけた時」
あの瞬間。
冷たい床の上にぽつんと丸まっていたナナセ。
指先を赤く染めて、苦しそうに肩を揺らしていた姿。
それを見た瞬間、頭の中が真っ白になった。
出会った頃のナナセは、何かに怯えて縮こまっていることはあった。
何かに警戒心を抱き、身体を小さくしていることもあった。
けれど――最近は違っていた。
中庭の木々の中で穏やかに過ごして。
部屋のソファで静かに本を読んで。
訓練所では小さくなって、自分の上着の上に座っている。
時折、自分に向けられる小さな微笑み。
自分の隣で、息をして生きている当たり前の存在。
そんな姿ばかりを見ていた。
いつの間にかセレンの中でも、その光景が日常の当たり前になっていたのだ。
「……弱ってるナナセ、ちゃんと見るの初めてだったから」
「……」
セレンはナナセの背中を、落ち着かせるようにゆっくりと撫でる。
「なんか……」
上手く言葉にまとまらない。
ただ――強烈に怖かった。
この腕の中に収まっている小さなナナセが、いつか自分の手の届かない場所へいなくなってしまうこと。
そんな可能性を、これまで考えたこともなかった。
考える必要なんてないと思い込んでいた。
けれど今日、初めてそれが痛々しいほどの現実味を持って胸に突き刺さったのだ。
自分の側で静かに笑っていたナナセが、いなくなる。
その想像をしただけで、胸の奥底がひどく冷たくなっていく。
「……」
セレンは少しだけ苦しそうに眉を寄せた。
自分でも気づかないうちに、ナナセはそんな存在になっていた。
「……?」
言葉を途切らせたセレンを、ナナセはじっと見つめている。
セレンはその純粋な瞳を見つめ返し、少しだけ困ったように苦笑した。
「……なんでもない」
言葉ではそう言いながらも。
ナナセを抱きしめる腕の力だけは、ぎゅっと強くこもっていた。
「セレンさん……?」
「……離れないで」
ぽつり。
暗闇に溶けてしまいそうなほど、小さな、小さな声だった。
ナナセは息を呑み、目を見開く。
けれど――その求めを拒むことなど、最初からできるはずもなかった。
ベッドの中で静かに、セレンの強い腕の温もりを全身で受け止める。
「……はい」
その確かな返事を聞いて。
セレンはようやく深く息を吐き、腕の緊張をほんの少しだけ緩めた。
それでも、抱えられたナナセの身体は、まだ体調のせいか少し冷えている。
セレンはその身体を毛布ごとすっぽりと包み込むように、きゅっと抱きしめ直した。
「……温かくなるまで、こうしてる」
「……はい」
ナナセはそっと静かに目を閉じた。
さっきまで全身を苛んでいた気だるさや苦しみが、少しずつ、穏やかに溶けていく。
セレンの腕のぬくもりの中で。
今度こそナナセは心から安心して、ゆっくり目を閉じた。




