第82話 解けた涙
セレンはナナセの小さな身体をしっかりと抱え上げると、そのまま急ぎ足で自身の寝室へと向かった。
「とりあえず、ここ」
先ほどまで自分が寝ていたベッドの上へ、そっと下ろす。
ナナセが弱々しく何かを言おうとするより先に、セレンは自分が着ていた服を一枚脱いだ。
「これ、当てといて」
「……はい」
血で汚れることなど一切気にせず、服を丸めてナナセの鼻元へ押し当てさせる。
「ちょっと待ってて」
そう言い残し、掛布団と毛布をナナセの肩までしっかりと掛けてから、セレンは洗面所へと向かっていった。
残されたナナセは、薄暗い寝室のベッドで小さく身体を丸めた。
先ほどまでセレンが使っていたからだろう。分厚い毛布の中には、まだ温かな体温が残っていた。
「……」
その匂いと温かさに包まれていると、激しかった眩暈や気持ち悪さが少しずつ引いていくのが分かる。
浅く乱れていた呼吸も、ほんの少しだけ楽になってきた。
――よかった。
そう思って小さく息を吐いたとき、セレンが戻ってきた。
その手には、冷水で固く絞られた清潔なタオルが握られている。
「はい」
セレンは自分の服をナナセから受け取ると、代わりに冷たタオルをそっと鼻元へ当ててやった。
「冷たすぎたら言って」
「……大丈夫、です」
セレンはそのまま、ベッドの端、ナナセのすぐ隣に腰を下ろした。
そして大きな手を、ナナセの背中へ優しく添える。
ゆっくり。
一定の、安心させるような温かいリズムで撫でていく。
「……」
ナナセは静かに目を閉じた。
セレンの手の温もりを感じているうちに、鼻血もようやく完全に止まってきた。
胃の奥をかき回されるような悪心も、かなり落ち着いている。
「……もう、大丈夫です」
「うん」
それでもセレンは背中を撫でる手を止めず、優しくナナセの顔を覗き込んだ。
「気持ち悪いのは?」
「……少しだけです」
「そっか」
安堵したような、柔らかな声。
その優しさに触れた瞬間、ナナセは小さく息を震わせた。
そして――。
「……ごめんなさい」
消え入りそうな声で、ぽつりと謝った。
「ん?」
「……また……迷惑、かけてしまって」
「迷惑じゃないよ」
「でも……っ」
ナナセの声が、微かに震える。
本当は、何か手助けをしたかった。
守られるだけじゃない、セレンの役に立てる存在になりたかった。
そのために、自分の魔力がどこまで戻っているのかを知りたかっただけだった。
それなのに、無理をした矢先に、結局こんなことになってしまった。
強くなるどころか、一番迷惑をかけたくないセレンに、また心配と負担をかけている。
「……私、一人で……何も……」
言葉が続かない。
自分の身体の管理すら、一人じゃできない。情けなくて、惨めで。
目元が熱くなる。
ぽたり、と。
堪えきれなくなった涙が、タオルの上に落ちた。
「ナナセ……?」
セレンが驚いたように目を見開く。
ナナセは慌てて顔を伏せた。
「すみません……っ」
泣きたくないのに。また謝ってしまう。
手で涙を拭おうとするけれど、身体に力が入らず、次から次へと雫がこぼれ落ちていく。
その震える小さな肩を見て――セレンは何も言わなかった。
ただ。
無言のまま、そっとナナセの身体をベッドから引き上げ、自身の胸の中へと深く抱き寄せた。
「……え」
突然包み込まれた温もりに、ナナセが小さく息を呑む。
セレンの大きく力強い腕が、ナナセの背中へしっかりと回される。
「もっと、頼ってほしい」
頭上から降ってきたのは、どこまでも静かな声だった。
「……っ」
「ナナセが俺のために何かしたいって思ってくれるのは、すごく嬉しいよ」
背中を、ゆっくりと、撫でる。
「でも。具合が悪いときまで、一人でどうにかしようなんて思わなくていい」
「……」
「俺に言って」
その真っ直ぐな言葉に、ナナセの目から再び涙がこぼれ落ちた。
「…………はい」
「無理もしないで」
「……はい」
「迷惑とか、そんなこと二度と考えなくていいから」
ナナセは小さく頷き、セレンの服を小さな手でぎゅっと握りしめた。
胸元から聞こえる、心音。
とく、とく、とく。
その規則正しい音を聞いていると、ナナセの心の中で張り詰めていた悔しさや情けなさが、温かい温度の中に少しずつ解けていくのが分かった。
セレンは何も急かさず、泣き止むまでただ静かに抱きしめ続けてくれていた。
「……大丈夫」
その深く優しい言葉だけが、夜の静寂に包まれた寝室に、いつまでも静かに響いていた。




