第81話 赤は冷えて
夜中。
ナナセは、身体全体に重くまとわりつくような不快な気だるさで目を覚ました。
「……ん……」
ぼんやりと霞む視界で周囲を見渡す。
月明かりだけになった、薄暗い静かな部屋。
寝室の扉はわずかに開いたままになっていた。
その向こうから、規則正しく穏やかなセレンの寝息が聞こえてくる。
(……帰ってきてたんだ……)
ナナセは胸の奥で、小さく申し訳なさを覚えた。
せっかく帰ってきてくれたのに、今日は結局顔を合わせることも、出迎えることもできないまま眠り続けてしまった。
そう思いながら、身体を起こす。
その瞬間――鼻の奥に、妙にぬるりとした生温かい感覚を覚えた。
「……?」
小さな指先で、そっと鼻の下を触れる。
暗闇の中、濡れた指先を見ると、黒い影のような液体が付いた。
「……鼻血……っ」
続いてぽたりと垂れそうになった赤い雫を、慌てて手で受け止める。
ナナセは足音を立てないよう、静かに立ち上がった。
洗面所まで行けば、水もタオルもある。セレンを起こさずに一人で処理できるはずだ。
そう思って、すり足で歩き出そうとした――そのとき。
「……っ」
数歩進んだところで、視界がぐにゃりと歪み、激しい眩暈が身体を襲った。
気持ちが悪い。胸の奥から胃の底がぐっと持ち上がるような吐き気がする。
ナナセは必死に身体を支えながら、それでも洗面所へ向かおうと足を前へ出す。
あと少し。
あの蛇口のところまで辿り着ければ。
そう思った瞬間、膝から完全に力が抜けた。
「……ぁ」
冷たい廊下の床へ、力なく膝から座り込んでしまう。
呼吸がうまくできず、胸が苦しい。
「……けほっ……、ぅ……っ」
喉の奥から込み上げるものを、必死に声を押し殺して耐える。
セレンを起こしたくない。心配をかけたくない。
その一心で、ナナセは身体を小さく丸めて耐え続けた。
けれど、小さくえずいた拍子に受け止め損ねた赤い血が、ぽたりと床へ落ちた。
「……あ……」
ナナセは血の混じる手のひらと、床の滴を見つめて呆然とする。
どうしよう。止まらない。早く綺麗に掃除しないと。
もし、セレンに見つかってしまったら――。
パニックになりそうな頭で考えている間にも、容赦なく強い不快感が込み上げてくる。
「……っ……」
ナナセがその場に小さくうずくまった、その瞬間。
「……ナナセ?」
静寂を切り裂いて、背後から低い声が落ちてきた。
「……!」
驚きで肩が跳ね上がる。
ゆっくりと振り向くと、そこには寝室から出てきたセレンが立っていた。
まだ目を細めた眠たげな顔をしている。
けれど――ナナセの姿と床の異変を目にした瞬間、セレンの表情が一変した。
「……え」
床にへたり込み、胸を押さえているナナセ。
赤く染まった小さな手と、床に滴る血の跡。
セレンは即座にかけ寄り、ナナセの前にしゃがみ込んだ。
「ナナセ、鼻血……出てる」
眉間を強くひそめながら、セレンは着ている服の袖を使って、ナナセの鼻元をそっと押さえた。
「……」
ナナセは声が出ない。
見つかってしまった。セレンに余計な心配をかけてしまった。
その申し訳なさだけで、胸がいっぱいになる。
「……気持ち悪い?」
耳元で響く、低く静かな声。
ナナセは少しだけ迷った。
いつものように誤魔化そうかとも思った。
けれど、もう誤魔化せるような状態ではないことくらい、自分が一番よく分かっていた。
ナナセはそっと目を伏せ、小さく頷いた。
「……はい……っ」
それを見たセレンの瞳が、さらに深く細められる。
「そっか」
声に怒りは一切混じっていなかった。
ただ、明らかに心配している。
セレンはナナセの細い背中と膝裏へ、そっと大きな腕を回した。
「もう無理して動かなくていい」
そう言って、抵抗する間もなくナナセの小さな身体を優しく抱え上げる。
「部屋、戻ろ」
「……でも……床……」
「床はあとでいい」
「……」
「今はナナセのほうが先」
その言葉に、ナナセはもう何も言い返せなかった。
セレンの広い胸の中に、小さく身体を預ける。
いつもなら誰よりも温かく感じるはずのセレンの体温が、今夜は遠く感じるほど、ナナセの身体は重く冷え切っていたのだった。




