第76話 あぶくを割って
「じゃあ、手を出してね」
「はい」
ナナセは言われた通り、手を差し出した。
キサが指先で用意したのは、掌に乗るほどの小さなシャボン玉だった。
その表面には、薄い魔力が薄膜のように込められている。
魔力を測る方法としては、かなり単純なものだった。
シャボン玉を手のひらに乗せ、魔力を注ぎ込んで割る。
最初は、触れただけでも簡単に弾ける程度の強度。
だんだん込める魔力の強度が上がっていくにつれて、容易には割れなくなっていく。
どれだけの魔力をどれほどの速度で注げば割れるのか。
そして、どこまでなら負担なく扱えるのか。
それらを客観的に見るための、能力測定のようなものだった。
「ここへ来たばかりの頃にも、同じことをやったよね」
「はい。何度か」
ナナセが答えると、キサは手元の過去の診断記録へと目を落とした。
「えーっと……」
パラリと紙をめくる。
「とりあえず、まずはこれから試してみようか」
キサが指先で小さなシャボン玉を作り出し、ナナセの白く小さな手のひらへ優しく乗せた。
――ぱち。
触れた瞬間に、儚く弾けて消える。
「うん」
キサが手元の記録と見比べる。
「今のが、治療を始めたばかりの頃の最終記録だね」
「……」
ナナセはシャボン玉が消え去った自分の手のひらをじっと見つめた。
あまりにもあっけない手応え。
当時の自分は、それほどまでに弱っていたのだと、思わず苦笑いが漏れる。
「じゃあ、次ね」
――ぱち。
今度も乗った瞬間に弾ける。
その次も、さらにその次も。
ナナセは淡々と手のひらのシャボンを割っていった。
キサはそのたびに手元の紙へ記録を書き込み、次の段階へと進めていく。
「ここまでは何の問題もなさそうだね」
「はい」
ぱち、……ぱち、……ぱち。
少しずつ、段階が上がるにつれて。
シャボン玉が割れるまでに、かすかな時間がかかるようになっていった。
ナナセは手のひらに乗った薄い虹色の球体をじっと見つめ、呼吸を整えて集中する。
身体の奥から、魔力を少しずつ手のひらへと流し込んでいく。
……ぱち。
「うん、いいよ」
キサが頷く。
「次」
またひとつ、新たなシャボン玉が乗せられる。
今度は、乗せた瞬間に変化は起きなかった。
「……」
ナナセは少しだけ眉を寄せた。
静かに魔力を込める。それでも、割れない。
「……割れない?」
キサが優しく尋ねた。
ナナセはすこし力を強める。
……ぱちっ!
その瞬間、シャボンが弾けた。
「なるほど」
キサの記録が続く。
「ここからだね」
それから、同じような緊張感のある試行が何度も続いた。
シャボンが手のひらに乗る。
ナナセが意識を研ぎ澄ませて集中する。
少しずつ、けれど確実に魔力を増量させる。
――ぱち、と割れる。
けれど、だんだんと魔力を流し込む時間が長くなっていった。
ナナセの呼吸も、少しずつ浅いものへ変わっていった。
「……」
キサは記録を取りながらも、ナナセの様子を見守っていた。
そして――。
「次」
新しい、より強固な魔力を秘めたシャボンが手のひらに乗る。
ナナセが全身の意識を集中させる。
数秒。
まだ、割れない。
もう少し。
さらに深く、魔力を絞り出すように流し込む。
「……っ」
それでも、割れない。
――もう少しだけ、力を込めれば。
そう思った、次の瞬間。
「ナナセ」
頭上から、キサの静かな声が降ってきた。
と同時に、自分の頬に温かな指先が触れる。
「……え?」
キサがナナセの鼻元をそっと押さえていた。
「鼻血」
「……」
ナナセは目を瞬かせ、キサの指先を見つめた。
「……あ」
キサは困ったように、けれどどこか切なさそうに苦笑した。
「よし、今日はここまでにしよう」
「でも……」
「ダメ」
珍しく、妥協を許さないきっぱりとした声だった。
ナナセは自分の手のひらに散った、シャボン玉の残骸を見つめる。
「……私……まだ、割れます」
「うん。たぶんね」
キサは静かに頷いた。
「でもね。それ以上をやったら、苦しい思いをするのはナナセだよ」
「……」
「今のナナセは、使える魔力が戻ってきてる。でも、身体が追いついてない」
そう説明をするキサに、ナナセは黙り込んだ。
自分の中では、もっとできると思っていた。
セレンの役に立てるくらい、強くなれているのだと。
けれど、キサの真剣な表情を見れば、自分が無意識に限界を超えて無理をしていたことくらい、嫌でも分かってしまう。
「……すみません」
「謝る必要なんてないよ」
キサは小さく微笑むと、柔らかいガーゼをナナセに渡した。
「むしろ、短期間でここまで魔力が戻ってきていることのほうが、驚きなんだから」
「……本当ですか?」
「うん」
キサは手元の記録に目を落とした。
そして、少しだけ何かを確かめるように黙り込む。
「ただ――」
「はい」
「セレンが何もさせない理由、なんとなく分かったかも」
ナナセは静かに顔を上げた。
キサは困ったように、けれど温かく目を細めて微笑む。
「今のナナセの力でも、きっとセレンの役に立てると思う」
その言葉に、ナナセの瞳が揺れた。
「でもね」
キサは言葉を紡ぐ。
「役に立つことと、無理をすることは、別だから」
ナナセはすぐには返事ができなかった。
手の上には、もう虹色のシャボン玉はない。
ただ、自分の中に、まだ完全には戻りきっていない弱さがあることだけは、胸の奥で痛いほどはっきりと理解していたのだった。




