第74話 小さな祈り
橙から群青へと色を変え始めた薄暗い部屋の中で、セレンはゆっくりと目を覚ました。
「……ん」
まだ心地よい眠気の残る目をうっすらと開ける。
毛布の中は暖かかった。
そして、その温もりの中に、もうひとつ、小さく柔らかな体温が寄り添っている。
「……」
セレンは静かに胸元へ視線を落とした。
そこには、ナナセがいた。
すっかり安心しきった顔で熟睡している。
少し乱れた白い髪がセレンの服に触れ、薄く透ける羽も力を抜いてすやすやと垂れ下がっていた。
セレンはしばらくの間、息を殺してその寝顔を黙って眺める。
「……ああ」
頭の奥で、昼間の記憶がゆっくりと繋がっていった。
毛布を優しく掛けようとしてくれていたナナセ。
不意に目が合って。
そのまま自分が勢いで手を引き寄せたこと。
腕の中に抱き込んで、そのままソファへ引き倒して眠ってしまったこと。
「……俺、何してんだろ」
自分に呆れ、小さく苦笑いを漏らす。
寝ぼけていたとはいえ、また自分から強引に引き寄せてしまった。
けれど、腕の中に収まっているナナセは、目を覚ます気配すら見せない。
拒絶するどころか、セレンの胸元にぴったりと寄り添い、心地よさそうに深い眠りに落ちている。
「……」
セレンはナナセを起こさないよう、ゆっくりと手を伸ばした。
額にかかった乱れ髪を、指先で軽く撫で上げるように整えてやる。
ナナセはそれでも起きなかった。
(……よく寝るようになったな)
部屋に連れてきたばかりの頃なら、こんなふうに自分の胸の上で無防備に眠る姿なんて、絶対に考えられなかった。
それが今は、こうして全身の力を抜いて眠っている。
セレンはその事実に、ほんの少しだけ目元を細めた。
「……まあ、いっか」
急いで起き上がる理由も、この幸せな時間を壊す理由もない。
セレンは再びソファに深く身体を預け直した。
ナナセが目を覚ますまで、ずっとこのままでいることにした。
夕闇が静かに降りてくる部屋の中。
毛布の下で重ね合わされた二人分の体温だけが、優しく、確かに残り続けていた。
◇
しばらくして、ナナセが目を覚ました。
「……ん……」
ぼんやりと瞼を開ける。
最初に肌に触れたのは、包み込むような温かな体温だった。
それから――。
「おはよ」
頭上から、少し眠たげな低い声が降ってくる。
「……」
ナナセは自分が今どこにいるのかを思い出した。
セレンの胸の上。
抱き寄せられたまま、すっかり眠りこけてしまっていたらしい。
「……すみません」
頬を染めながら、小さく謝る。
「いや、いいよ」
セレンは少し困ったように眉を下げて笑った。
「俺のせいだよね」
「いえ……」
ナナセはそう答えながら、セレンの顔をじっと見上げた。
まだ少し眠たげな瞳。
普段のキリッとした凛々しさが削げ落ちた、力の抜けた柔らかい表情。
やっぱり寝起きがあまり良くないんだろうとそんなことを思って、ナナセは胸の奥で小さく笑った。
でも、こんなふうに無防備で人間らしいセレンを見られるのは、嫌いじゃなかった。
いつもは静かで、落ち着いていて、戦えば強い。
自分のような存在など何ひとつ必要としていないように見えてしまう人。
けれど、今は違う。
自分の目の前で、眠そうに瞬きをしている。
何処の誰でもない、ただ一人の優しい人間に見えた。
「……」
ナナセは、今日思ったことをふと思い出す。
――守りたい。
義務だからではない。
命令されたからでも、使役妖精だからでもない。
ただ、この人が傷つかないでいてほしい。
この優しい人が、どうか悲しい目に遭わないでほしい。
心の底から、そう思った。
ナナセはそのまま、セレンの胸元へともう一度そっと身体を寄せた。
「……?」
セレンが驚いたように目を丸くする。
けれど、引き離そうとはしなかった。
セレンの胸元から、トク、トク、と伝わってくる。
一定の、温かな心音。
それが、今のナナセには妙に心地よかった。
「……まだ眠い?」
セレンの声は、寝起きのせいか少しだけ掠れている。
ナナセはその問いには答えなかった。
ただ、セレンの服の生地を、小さな手でほんの少しだけ強く握りしめる。
そして――。
祈るように、静かに目を閉じた。
この時間が。
温もりが。
どうか、ずっとずっと続きますように。
胸の奥で、誰にも聞こえない切なる願いを抱きしめながら。
ナナセはいつまでも、セレンの優しい心音に耳を澄ませていたのだった。




