第71話 優しい人
侵入者の気配を確認するため、セレンたちは速やかに建物の外へと躍り出ていた。
ナナセはセレンの外套の中、身体を小さく丸めている。
セレンが地を蹴り疾走するたびに、ぐんと身体が上下に揺れた。
外套の中でこうして待機するのは、どこか懐かしい感覚でもあった。
けれど――ナナセには、それ以上に気にかかることがあった。
昼間、使役妖精の立ち回りについて尋ねてきたセレン。
だからナナセは、実戦に入ればセレンから何かしらの指示が飛んでくるものだと思い込んでいたのだ。
攻撃の補助はともかく、せめて保護魔法や遠視魔法の指示くらいはあるだろうと。
「……?」
しかし、セレンからは何も命じられない。
ナナセは戸惑いながらも、外套のわずかな隙間を見上げ、様子を伺った。
セレンの視線はまっすぐ前を向き、ただ目の前の侵入者だけを鋭く捉えている。
次の瞬間――セレンの身体が大きく、しなやかに躍動した。
「……っ!」
ナナセの身体も、それに合わせてふわりと揺れる。
訓練所で模擬戦を見たことはあった。
セレンがどれほど強く戦うのかも知っていた。
けれど――こうして本格的にセレンの戦いを全身で感じるのは初めてのことだった。
地を蹴る足音が、ほとんどしない。
呼吸すら驚くほど静かだ。必要な瞬間にだけ、かすかに短く息を吐く。
一挙一動に、一切の無駄がない。
疾風のように身を捻り、相手の放った攻撃を紙一重でかわしていく。
一歩。さらに一歩。
ナナセがセレンの残像を追おうとした時には、すでにセレンの立ち位置が変わっていた。
「……ッ」
次の瞬間、ドサリと重い音を立てて侵入者が地面へ倒れ込む。
セレンがその背を完璧に押さえ込んでいた。
あまりにも一瞬の制圧。
ナナセは外套の中で呆然と目を丸くした。
いつの間に近づき、いつの間に倒したのか。そう思うほど静かで、圧倒的な戦闘だった。
セレンが侵入者を完全に拘束すると、ほどなくしてフィリスたちも別方向から合流してきた。
「セレン、そっちは?」
「終わった」
「了解。こちらも制圧完了だ」
短く敵の処理を済ませると、セレンはようやく外套の内側へと意識を向けた。
「ナナセ」
「はい」
「大丈夫? 揺れたでしょ」
「……はい」
ナナセは少しだけ言葉を迷わせてから、意を決して尋ねた。
「……あの、何か……指示をいただけるのかと」
「ああ」
セレンは一瞬だけ、申し訳なさそうに目を伏せた。
「今回は俺が動くから」
「……」
「ナナセは何もしなくていいよ」
その温かくも決定的な言葉に、ナナセは静かに黙り込んだ。
「……分かりました」
小さく返事をする。
セレンはそれ以上何も言わず、外套の端をそっと整えていた。
その優しく丁寧な手つきだけが、さっきまで敵を制圧していた人物とは思えないほど穏やかだった。
セレンは、本当に何も必要としていない。
侵入者の気配を探るときもそうだった。
ナナセが感覚的に感じ取ったものと、ほとんど同じタイミングでセレンは敵の位置を把握している。
戦闘になっても、仲間にすら援護を求めない。
ナナセが魔法を詠唱する隙すらないほど、セレン自身の手だけで戦いを終わらせてしまう。
外套の中からセレンの鼓動を感じながら、ナナセの胸の奥に少しずつ不安の影が広がり始めていた。
――自分がここにいることで、セレンの邪魔になっていないだろうか。
セレンは本当なら、もっと身軽に動けるのかもしれない。
それなのに、こうして自分を抱えたまま戦っている。
もし、自分がいなければ、もっと速く動けるのではないか。
もっと自由に、全力で戦えるのではないか。
「……」
ナナセはセレンの胸元で、小さく身体を縮こまらせた。
けれど、そんな不安の向こう側で、胸の奥から湧き上がるように強く思ったことがある。
――もっとセレンの力になりたいのに。
今までなら、主人を守ることは「当たり前の義務」だった。
命令されたから。
使役妖精だから。
そういう存在だから。
でも、今は違う。
セレンが、自分という存在を守ろうとしてくれている。
なら――自分も、セレンが傷つかないようしたい。
それは誰からの命でもない。
生まれて初めて、自分自身の心が「そうしたい」と望んだことだった。
ナナセは暗い外套の中で、そっと小さな拳を握りしめる。
何ひとつ自分の助けを必要としないほど、強くて優しい人。
それでも、自分がそばにいる意味を、いつか見つけたいと思った。




