第67話 芽生えた光
「次からは、左側に入らないで」
セレンはそう言った。
今度は、先ほどよりも少しだけ強い、けれどどこか切なさを帯びた声だった。
「……はい」
ナナセは驚いたように目を瞬かせる。
右側のポケットの中で小さく身体を縮めながら、セレンが言った言葉の意味を静かに反芻していた。
左胸に入ること。
それはナナセにとって、あまりにも当たり前のことだった。
主人の心臓を守るなら、そこに居るのが手っ取り早い。
正面からの攻撃が来れば、自分が先に受け止める。
それが、使役妖精としての役割だったから。
自分が心臓の前にいることが、どういう意味を持つのか。
ナナセ自身も、もちろん分かっていたし、それでいいと思っていた。
けれど――セレンは、それを明確に拒んだのだ。
「……」
不思議だった。
セレンと一緒に居ると、ずっと自分の中にあった「常識」が、少しずつ、けれど確かに形を変えていく。
何もしなくていいと言われ。
ついには、主人を守るために命を投げ出すことさえ、してはダメだと怒られる。
今まで生きる前提だったすべてが、セレンのそばでは、何ひとつ当たり前ではなくなっていく。
ナナセはポケットの縁から、そっとセレンの横顔を見上げた。
セレンはまっすぐ前を向いている。
けれど、その瞳は少しだけ伏せられていた。
どこか悲しそうにも、胸を痛めているようにも見えた。
――なぜ、そんな顔をするのだろう。
ナナセには、その本当の理由は分からない。
けれど――その表情の奥にある「想い」だけは、なんとなく理解できた。
優しさだった。
セレンは、自分が傷つくことを心から嫌がっているのだと。
それだけは、はっきりと伝わってきた。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように熱くなる。
「……セレンさん」
「ん?」
「……分かりました」
小さな、けれど通る声で答える。
「次からは……ちゃんと、右に入ります」
セレンは少しだけ顔を振り向かせた。
「……うん」
それだけの、小さな返事だった。
けれどナナセには、その短い一言が妙に温かく、胸に染み渡るように聞こえた。
暗い外套の中で。
ナナセは小さく膝を抱え込む。
今までなら。
自分の命がどうなろうと、惜しいと思ったことなど一度たりともなかった。
けれど――。
この人がこんなにも嫌がるのなら。
これからは少しだけ、自分の命を大切にしてもいいのかもしれない。
そんな温かな考えが、初めてナナセの胸の中に小さく萌芽していた。




