第6話 新しいルール
中継ポイントには、簡素な休憩所が設けられていた。
木製のベンチと、簡単な物資を置くための棚があるだけの小さな場所だ。
フィリスたちはそれぞれ腰を下ろし、水分を補給しながら休息を取っている。
セレンも大きな木の陰に腰を下ろし、幹に背を預けていた。その肩には、まだ小さなナナセが乗っている。
ナナセは、先ほどからほとんど動いていなかった。
巡回中、自分は何もしていない。
結界も張っていない。監視魔法も使っていない。
ただ、セレンの肩に乗っていただけだった。
身体は驚くほど軽い。
魔力もほとんど減っておらず、疲れてもいない。
そのことが、ナナセにはまだ不思議だった。
けれど同時に、先ほどから胸の奥に凝り固まっている違和感がある。
何もしなくていい。必要がなければ、何もしなくていい。
セレンはそう言った。
その言葉を信じたいと思う気持ちは、少しずつ大きくなっている。
それでも。
(……どうして?)
何度考えても、そこだけが解せなかった。
以前なら、そんなことはあり得なかったからだ。
役割を与えられる。命令される。それに従う。
それが使役妖精としての「当たり前」だった。
だからこそ、何も求められない今のほうが、かえって落ち着かない。
ナナセはしばらく躊躇したあと、セレンの肩からふわりと飛び降りた。
淡い光が身体を包み、人間サイズへ戻る。
セレンの少し前に立つと、ナナセは両手を胸の前でギュッと握りしめた。
「……あの」
「ん?」
セレンが顔を上げる。
「少し、お聞きしてもいいでしょうか」
「いいよ」
ナナセは一度だけ静かに息を吸った。
「今日の任務のことなのですが」
「うん」
「……私は、本当に何もしなくてよかったのでしょうか」
セレンは少しだけ眉を動かした。
「うん」
あまりにも迷いのない返事だった。
「ですが……」
ナナセは慌てて言葉を探す。
「巡回任務では、普通なら……索敵や監視をするものだと思います」
「必要なら頼むよ」
「……」
「今日は必要なかった」
ナナセは俯いた。
「そう、ですか」
「うん」
それだけ。
話が終わってしまいそうになり、ナナセは必死に言葉を紡いだ。
「……では」
「ん?」
「何もしなくていい理由は、何なのでしょうか」
セレンが黙り込む。
少し離れたところで、ナギがちらりとこちらを見た。ソラトも気づいたようだったが、二人とも口は挟まない。
セレンはしばらく考えてから、静かに答えた。
「理由?」
「はい」
「必要ないから」
「……」
ナナセは困ったように目を伏せた。
それでは、やはり分からない。
セレンはそんなナナセを見て、少し首を傾げる。
「何か問題ある?」
「……問題、というわけでは」
「じゃあ何?」
ナナセは答えられなかった。自分でも、何を聞きたいのか上手く整理できない。
ただ――何もしなくていいと言われるたびに、胸の奥が冷たくざわつくのだ。
「……私は」
やっとの思いで声を絞り出す。
「使役妖精なので……何かお役に立たなければ、いけないのではないかと思っていて」
「なんで?」
「……」
ナナセは完全に答えに詰まった。
それは、自分にとって息をするのと同じくらい当たり前の前提だったから。
役に立つこと。命令に従うこと。必要とされること。
それがなければ、自分という存在には何の価値もない。
けれど、そこまで言葉にすることはできなかった。
「……分かりません」
ナナセが小さく呟く。
セレンはしばらく何も言わなかった。やがて、少しだけ視線を逸らす。
「俺は、そういうの考えてないけど」
「……?」
「ナナセが妖精だから使うとか、そういうのじゃなくて」
セレンは淡々と続けた。
「必要なときは頼む。必要ないなら頼まない。それだけ」
「……」
「だから、自分で勝手に仕事を探さなくていい」
ナナセはセレンを見つめた。
「……本当に?」
「うん」
「何もしなくても?」
「うん」
「……それで、困らないのですか?」
「困らないよ」
即答だった。
ナナセの指先から、ほんの少しだけ力が抜ける。
「……そうですか」
「むしろ」
セレンは少し考えてから付け足した。
「勝手に魔力使って疲れられるほうが困る」
その瞬間、ナナセの肩がびくっと跳ねた。
「……すみません」
反射的に頭を下げようとする。
「あ」
セレンが少し目を見開いた。
「違う。怒ってない」
「……」
「言い方悪かった」
ナナセがゆっくり顔を上げると、セレンは困ったように頭を掻いていた。
「無理して魔力使わなくていいってこと」
「……はい」
「俺が必要だと思ったら言うから」
「……はい」
「だから、何も言われてないなら本当に何もしなくていい」
ナナセは黙ってセレンを見つめた。
その言葉は、とても単純だった。
けれどナナセにとっては、今まで生きてきた世界になかったまったく新しいルールだった。
「……分かりました」
今度は、少しだけ迷いのない声だった。
「うん」
セレンもそれ以上は言わなかった。
すると、横からナギが苦笑しながら口を挟む。
「まあナナセ、セレンって本当に必要なことしか言わないからね」
「そうそう。もっと話せばいいのにさ」
ソラトも笑う。
「俺らだって、セレンから長々説明された記憶ないし」
「余計なこと言わないだけ」
「はいはい」
「お前、言葉足らずなんだよ」
ヒヨリがそう茶化しつつも、柔らかく笑った。
セレンは少しだけ不機嫌そうに顔をしかめる。
「……勝手に言ってろ」
三人が楽しそうに笑う。
ナナセはその光景を、静かに眺めていた。
セレンは怒っていない。誰かに責められているわけでもない。
こうして、当たり前のように穏やかな会話が交わされている。
そのことが、ナナセにはどこか不思議で、眩しかった。
「……そう、ですか」
ナギたちの言葉にナナセは小さく返事をすると、再び淡い光と共に小さな姿へ戻る。
ふわりと飛び上がり、セレンの肩へ戻ろうとした。
セレンは何も言わなかった。
ただ、ナナセが乗りやすいように、ほんの少しだけ右肩を下げた。
ナナセはそこへ静かに腰を下ろす。
「……」
肩越しに伝わってくる心地よい体温。
歩いているときとは違う、穏やかな空気。
何もしなくていい。
命令されなくてもいい。
今は、それでいいらしい。
まだ完全には信じきれない。胸の奥に残っている小さな不安も、すぐには消えてくれない。
それでも。
少なくともセレンは、口にした約束を破らない。
そのことだけは、少しずつ心に染み込んできていた。
ナナセは小さく息を吐き、セレンの肩の上でそっと羽を休めた。
そして――初めて。
何もしないまま、ここにいてもいいのかもしれない。
ほんの少しだけ、そう思った。




