第59話 ルナと青年
セレンが向かった先は、ダイニングだった。
昼間の賑やかさとは一転して、夜のダイニングは少しだけ雰囲気が変わっている。
ルナが夜の間だけバーのように店を開けており、照明が落とされた静かな空間には、心地よい音楽が低く流れていた。
カウンターの奥で慣れた手つきでグラスを拭いていたルナが、入り口の気配に気づいて顔を上げる。
「……お?」
ルナは驚いたように目を丸くした。
「久しぶりじゃん」
「まぁね」
セレンは短く答えながら、空いていたカウンター席へと腰を下ろした。
ルナは何も尋ねず、酒をグラスに注いで目の前へ差し出す。
「珍しいな。最近、全然顔出さなかったじゃん」
「そう?」
「そうだよ」
ルナはグラスを磨く手を止めず、セレンの顔を覗き込んだ。
「前は夜になると、毎晩みたいにふらふら来てたのにさ」
「……」
「あの頃のお前、なんか不安定だったし」
「うるさい」
「ナナセを連れてきた時なんて、昔のお前を見てるのかと思ったよ」
「……どういう意味?」
「警戒しっぱなしで、ここの人間を誰も信用してないって感じ? ナナセはお前と違って、器用に隠してたけどね」
「……」
セレンは不貞腐れたように、少しだけ目を伏せた。
ルナはその子供っぽい反応を見て、楽しそうに笑った。
「で、今はどうなの?」
「普通」
「へぇ」
「……」
セレンは酒を静かに一口含む。
けれど、その表情は以前の刺々しさが消え、ずっと穏やかで柔らかかった。
ルナはそれを見逃さず、目を細めて嬉しそうに頷く。
「まあ、最近は二人ともいい顔するようになったじゃん」
「何だよそれ」
「なんでもない」
ルナは可笑しそうに笑いながら、再びグラスを拭き始める。
セレンは何も答えず、静かに酒のグラスを傾けた。
頭の片隅には、さっき部屋で眠りについたナナセの姿が残っていた。
涙で赤くなった目元、泣き疲れた顔。
そして――最後に見せた、穏やかな寝顔。
セレンはグラスをゆらしながら、ほんの少しだけ口元を緩めたのだった。
◇
しばらくルナと取り留めのない話をしたあと、セレンはダイニングを後にした。
静まり返った夜の廊下を歩き、自分の部屋へと戻る。
鍵を開けて扉を入ると、そこには温かで静かな室内が広がっていた。
ソファでは、ナナセが気持ちよさそうに横になって眠り続けている。
「……」
セレンは足音を殺しながら、そっと近づいた。
先ほどと変わらない、どこまでも穏やかな寝顔。
赤くなっていた目元も、眠っているうちに少しずつ落ち着いてきていた。
セレンはしばらくの間、その寝顔を慈しむように見つめた。
以前のナナセなら、部屋を出た時点でドアが開く音に気付いて目を覚ましていただろう。そのまま起きて待っていたかもしれない。
けれど今は、セレンが帰ってきても起きる気配すらない。
それだけ心を許し、深く眠れているということが、セレンにとってはどんな言葉よりも嬉しかった。
「……よかった」
胸の底から溢れた小さな呟き。
ナナセを起こさないよう、セレンはそのまま静かに寝室へと向かう。
今日も、寝室の扉は完全には閉めない。
ほんのわずかだけ隙間を開けておく。
ソファで眠るナナセの息遣いと気配を、いつでも感じられる距離。
ベッドへ入ると、セレンは静かに目を閉じた。
部屋には、ふたりの規則正しい小さな寝息だけが優しく響いている。
今夜も――どこまでも穏やかで、温かな夜だった。




