第51話 光を残して
部屋へ戻ったとき、セレンはふと足を止めた。
「……あれ?」
出ていく前とは、部屋の様子が少し違っていた。
床に散らばっていた雑多なものは綺麗に片付けられ、机の上も整然と整理されている。
本棚の背表紙も美しく並べ直されていた。
ナナセがいつも過ごしているソファにだけ、掛け毛布がそっと置かれたままになっていて、そこにだけ温かい生活感が残されていた。
「……掃除してくれたの?」
「……はい」
ナナセが小さく頷いた。
「時間があったので……」
セレンは目を細め、胸の奥が温かくなるのを感じた。
「助かる。ありがとう」
その労いの言葉に、ナナセの緊張していた表情がふっと緩む。
「いえ」
どこかほっとしたような笑顔だった。
セレンはその顔を見つめ、自身もほんの少しだけ口元を緩めた。
「今日も、ここにいていいから」
「……はい」
ナナセはどこか嬉しそうにソファへと戻る。
セレンもその隣を通り過ぎ、すっかり片付いた心地よい部屋をもう一度見渡した。
自分一人で殺風景に暮らしていた頃よりも、部屋がほんの少しだけ明るく、温かく見える。
(……不思議だな)
セレンは静かにそう思った。
◇
しばらくの間、二人の間には穏やかで静かな時間が流れていた。
セレンはソファの端に腰かけ、お酒を一口含みながら静かに本を読み、ナナセもその隣でセレンに借りた本に目を通している。
時折、パサリとページをめくる小さな音だけが部屋の中に響いていた。
やがてセレンはナナセの横顔をじっと見つめ、手にしていたグラスをコトンとテーブルへ置いた。
ナナセはそれに気づかず、真剣な眼差しで本に視線を落としている。
セレンはゆっくりと立ち上がると、ナナセの目の前まで歩み寄った。
「……?」
セレンの影に気づき、ナナセがふと顔を上げる。
「どうかしましたか……?」
次の瞬間――。
「わっ……」
ナナセの身体がふわっと宙に浮いた。
セレンの手によってそのまま抱き上げられ、静かにセレンの膝の上へと乗せられる。
「……え」
驚いて目をパチパチさせている間に、セレンの大きな腕がナナセの華奢な身体をすっぽりと包み込んだ。
そして、そのままナナセの肩口へと、セレンが自身の額をそっと預けてくる。
「……!」
ナナセは驚きに息を呑んだ。
セレンは何も言わない。ただ静かに、けれど縋るようにナナセを強く抱きしめている。
「あの……」
どうしていいのか分からず、ナナセが困惑したように小さく声をかける。
セレンは肩口で、ほんの少しだけ顔を動かした。
「ごめん」
「……」
「しばらく、このままでいさせて」
いつもの淡々とした声よりも、ずっと小さな声だった。
ナナセは戸惑いながらもセレンの様子を伺う。
さっき庭園に来た時のセレンも、今のセレンも、どこか思い詰めたような雰囲気がある。
今日の任務で、何かあったのだろうか。
そう思ったけれど、今は問いかけるよりも、セレンと同じく抱きしめ返すべきなのかもしれないと思った。
少しだけ迷った末に、ナナセは何も言わず、そっと自分の小さな腕を動かした。
そしてセレンの広くて大きな背中へと、ゆっくりと腕を回して優しく抱き返した。
「……」
そのぬくもりに応えるように、セレンの強張っていた身体がほんの少しだけ緊張を解いた。
窓の外では、静寂と共に夜の深まりが満ちていく。
部屋の中もその深遠に応じるように、どこまでも穏やかな静寂に包み込まれていた。
セレンはそっと目を閉じる。
自分の背中に回された、ナナセの小さな手のぬくもり。
それだけで、今日一日ずっと胸の奥に澱のように残っていた苛立ちや冷たい感情が、解けるように消え去っていく気がした。
「……ありがとう」
掠れた感謝の声が、ナナセの肩口へぽつりと落とされる。
ナナセはセレンの背中を撫でながら、小さく頷いた。
「……はい」
それ以上、二人とも何も言わなかった。
◇
セレンのあたたかな腕の中で包まれているうちに、ナナセの身体から少しずつ力が抜けていく。
「……ねむ」
セレンが耳元で小さく呟いた。
「……そう、ですね……」
返ってきたナナセの声も、すっかり眠たげだった。
セレンはそれを受け止め、ふっと優しく微笑む。
「寝よ」
「……はい」
セレンはその華奢な身体をそっと抱き上げた。
セレンは迷いなく寝室へと向かって歩き出していた。
「……ん」
ナナセは一瞬だけ目を開けたものの、もう言葉を発するほどの力は残っていなかった。
そのままセレンの首元に、そっと頬を寄せる。
寝室へと向かう静かな足音が部屋に響き、柔らかいベッドの上へとそっと寝かされる。
セレンもそのままベッドに入り、ナナセの身体をもう一度、そっと抱き寄せた。
「……」
ナナセは薄く目を開けた。
いつも過ごしていたソファではない。
目の前には、セレンのあたたかな胸と腕がある。
それだけをぼんやりと確認すると、セレンから伝わるぬくもりに導かれるように、静かに瞼が落ちていった。
「……おやすみ」
「……おやすみなさい……」
かすかな息遣いと共に、二人はほとんど同時に深い眠りへと落ちていった。
どこまでも静かで、優しい夜だった。
ナナセの羽が、心地よい眠りの中でほんの少しだけ淡く光を帯びている。
その小さな輝きが、二人が寄り添って眠る静かな部屋を、どこまでも柔らかく照らし続けていた。




