第50話 重なる光
ただ静寂に包まれた中庭に、噴水の水音だけがさらさらと響いている。
セレンは月を見上げるナナセの姿を、ただじっと見つめていた。
満月の光を受けて淡く輝く羽。夜風にふわりとなびく柔らかく長い髪。
月明かりに優しく照らされた横顔。
「……綺麗だ」
――気づけば、抑えきれない言葉が口から零れ落ちていた。
ナナセがパッと振り向き、驚きに目を見開く。
「……え?」
セレン自身も、自分が何を口にしたのか一瞬遅れてハッと気づいた。
けれど、撤回したり誤魔化したりする真似はしなかった。
「綺麗だなって」
「……」
ナナセはしばらくの間、セレンの瞳を言葉もなく見つめ返していた。
やがて、耐えかねたように少しだけ視線を泳がせる。
その白い頬が、ほんのりと染まっていく。
「……初めて言われました」
その、ポツリとこぼれた小さな呟きに。
セレンの胸の奥が、ぎゅっと締めつけられるように痛んだ。
初めて。
たったそれだけの言葉なのに。
これほどまでに綺麗な存在なのに、今まで誰一人としてそんな言葉をかけてくれなかったのか。
そんな思考が頭を巡るより先に、セレンの身体が勝手に動き、ナナセをその腕の中へとそっと抱き寄せていた。
「……え」
ナナセの小さな身体が、セレンの広い胸の中にすっぽりと収まる。
驚きのあまり、ナナセの全身が硬直するのが伝わってきた。
セレン自身も、自分が何をどう伝えればいいのか分からなかった。
綺麗だと言ったけれど、そんな言葉だけでは到底足りない気がした。
留守番をさせて心配だったこと。
もう二度と苦しい思いをしなくていいこと。
二度と誰にも傷つけさせないこと。
伝えたい想いは、胸の中に溢れるほどある。
けれど自分には、そういう想いを器用に言葉へと変換する術がなかった。
だからただ、こうして腕の中で抱き締めることしか出来なかった。
「……セレンさん?」
戸惑いを孕んだナナセの声に、セレンはすぐには答えられなかった。
ただ、その華奢な背を慈しむように、抱きしめる腕へ少しだけ力を込める。
ナナセが息を呑み、驚いているのが分かった。
それでも、どうしても離すことが出来なかった。
「……ごめん」
ようやく唇から漏れたのは、そんな掠れた一言だけだった。
「今、なんか……」
セレンは胸の内を鎮めるように言葉を探す。
「言葉にするの、難しくて」
「……」
ナナセは何も言わなかった。
ただセレンの温かな腕の中で、静かに体を預けている。
セレンはそっと目を閉じた。
今日一日、胸の底にドロリと溜まっていたあの冷たい怒りも。
カネルへの強い嫌悪感も。
ナナセがこれまで受けてきた過酷な打ち打ちへのやりきれなさも。
今この瞬間だけは、すべてが遠くへと去っていた。
腕の中に確かに存在するナナセのあたたかな体温だけが、セレンにとっての唯一の現実だった。
「……」
ナナセは戸惑いながらも、セレンの心拍を感じ取りながらゆっくりと目を閉じる。
青白い月明かりのなか。
淡く瞬く美しい羽が、寄り添う二人の背後で静かに揺れていた。
◇
しばらくして。
セレンは溢れる愛おしさを押し殺すように、ゆっくりと腕の力を緩めた。
そして、ナナセの身体から静かに離れる。
「……」
ナナセはまだ少し戸惑ったようにセレンを見上げていた。
セレンも何か言おうとして、やめる。
代わりに、ナナセの前へ静かに右手を差し出した。
「戻ろ」
「……はい」
ナナセはその大きな手を見つめた。
ほんの少しだけ躊躇ってから、そっと自分の小さな手を重ねる。
セレンの長い指が、ナナセの手を包み込むように優しく握り直した。
二人はそのまま並んで歩き出す。
渡り廊下へ向かう二人の後ろで、噴水の水音が清々しく響き続けていた。
ナナセの羽は、今も月明かりを浴びて優しく輝いている。
歩きながら、ナナセはぎゅっと繋がれたお互いの手を見下ろした。
(……手)
かつての自分が感じたことのない優しい温もりだった。
それがどこか不思議で。
そして嬉しかった。
セレンは何も言わなかった。
ただナナセの小さな歩幅に合わせるように、いつもよりずっとゆっくりと、静かに歩みを進めていた。




