第39話 冷たい灯り
セレンは手元の本から視線を上げなかった。
けれど、先ほどナナセがぽつりと零した言葉は、頭の中に重く残っていた。
昔、森で何かに襲われたこと。
たった一人で彷徨っていたこと。
そして、アルカの保護部隊に拾われたこと。
「……」
ふと、以前キサから手渡された報告書の束を思い出す。
『保護管理報告書』
そこに淡々と記されていた、この小さな妖精の状態。
重度の貧血と魔力欠乏。
繰り返す激しい頭痛とめまい。
そして――その原因となった、契約者による、暴力的なまでの過剰な指導。
あの時報告書を読んだ時は、ただただ劣悪な環境で酷い扱いを受けていたのだと思った。
だが、今夜のナナセの話を聞いて。
セレンは少しだけ、深く考え込んだ。
アルカへ来る前からも、この妖精は傷つき苦しんでいたのだ。
森を襲撃した相手もきっと人間だったのだろう。
そして、保護されたはずのアルカへ来てからもなお、ナナセは逃げ場のない苦痛の中に置かれ続けていた。
恐らく人間と共存することも、ギルドという共同体の中に混ざることも初めてだったはずだ。
一体、どれだけ長い間、この小さな妖精は絶望の中で生きてきたのか。
セレンは手にしたグラスをローテーブルへと静かに置いた。
カラン、と氷が乾いた音を立てる。
視線の先では、ナナセが静かな横顔で本を追っている。
今でこそ落ち着いているが、ナナセはふとした拍子に思い出したように身体を強く強張らせることがある。
何か行動を起こすたびに、反射的に「すみません」と謝罪の言葉を口にする。
本を1冊読むことすら、自分自身の意志で決めていいのか迷っていた。
それらの怯えのすべてが、ひとつに繋がった。
セレンはそっと目を伏せる。
『第五部隊長 カネル』
報告書に幾度となく書かれていた、前任の契約者の名前。
あの男は、ナナセが自分のもとへ来ることになった経緯を知っていたのだろうか。
森で傷つき襲われたことや、弱り切って保護された時のことを。
それをすべて知った上で、あれほどの扱いをし、使い潰そうとしたのだろうか。
それとも、何も知らず、ただ「使役妖精」という能力の利便性だけを見て追い詰めたのだろうか。
どちらにしても。
セレンは腹の底の深層から、静かな熱がゆるやかに生まれていた。
怒鳴り散らすような荒々しいものではない。
どこまでも透明で、どこまでも冷たい怒りだった。
セレンはちらりとナナセを見た。
ナナセはまだ、おとなしく本を読んでいる。
さきほどのやり取りからの安心感からか、その表情には今のセレンが何を考えているのかなど伝わっていない。
セレンはあえて問いかけなかった。
過去のことを聞けば、ナナセはきっと答えようとする。
そしてまた、必要以上に自分を責めて謝るかもしれないからだ。
だから、今は聞かない。
けれど、セレンは胸の中で静かに、固く誓った。
少なくとも自分の目の前では、二度と同じ思いはさせない。
ナナセが息をし、立ち上がり、何かを選ぶために、誰かに怯える必要などどこにもないのだと。
「……」
セレンは再び、手元の本を開いた。
ナナセの隣に流れる静かな時間を、何事もなかったかのようにそっと再開させる。
ただ――この夜から。
セレンの胸の奥には、ひとつの名前が消えずに刻まれていた。
カネル。
その歪んだ男の名前を思い出すたびに。
セレンの胸の奥で、冷ややかな怒りの火が静かに灯り続けていた。




