第38話 妖精の物語
その日の夜。
部屋には、ページをめくる擦れ音と、壁の時計が刻む規則正しい針の音だけが静かに響いていた。
セレンはいつものようにゆったりとソファに深々と腰掛け、片手には琥珀色の酒が入ったグラスを揺らしている。
そして、もう片方の手には分厚い本が開かれていた。
ナナセもまた、そこから少し離れた場所で一冊の本を開いていた。
久しぶりに指先で触れる、本の感触。
部屋で手持ち無沙汰にしていたナナセの様子に気づき、セレンが部屋の本棚から適当に一冊を選んで手渡してくれたものだった。
セレンは普段から本を好んで読むタイプなのか、壁際の本棚にはさまざまなジャンルの本が雑然と並べられていた。
『読む?』
『……いいんですか?』
『俺のだし。別に好きに読んで』
交わしたのは、たったそれだけの会話だった。
けれど、本を開いたその瞬間。
ナナセの胸の奥に、ほんの少しだけ懐かしい感覚が蘇っていた。
特有の紙の匂い。
指先に伝わるざらついた感触。
静かな部屋に響く、ページをめくる心地よい音。
ずっと昔。
まだ、アルカへ来るよりも前のこと。
そんな幼い頃にも、自分はこうして本をめくっていた気がする。
「……」
ナナセは静かに次のページへと指を滑らせる。
書かれている文字は頭に入っているような、入っていないような曖昧なものだった。
ただ活字を追っているうちに、ぼんやりと遠い過去の記憶が脳裏に浮かび上がってくる。
深い森。
うっそうとした木々の隙間から差し込む、冷たい光。
足裏に感じた濡れた土。
遠くで微かに聞こえていた鳥の鳴き声。
そして――揺らめく炎。
何かに襲われた。
激しい恐怖の記憶だけは、今でも鮮明に残っている。
必死で逃げた。
何度も転び、傷だらけになりながら、ただ闇雲に森の中を彷徨い歩いた。
どこへ向かえばいいのかも分からないまま。
身体は傷と泥に汚れ、魔力も底を突きかけていた。
「……」
ナナセの指が、ページの上でぴたりと止まる。
あの時。
限界を迎えて森の中で倒れていた自分を見つけたのが、アルカの保護部隊だった。
『妖精だ』
『まだ生きてるぞ!』
薄ぼんやりとした意識の中で聞いた、誰かの叫び声。
その後のことは、途切れ途切れにしか覚えていない。
アルカの施設へと運ばれ、保護され、治療を受けた。
そこから先の使役妖精としての記憶は、嫌というほどはっきり覚えている。
けれど――それ以前の自分の生い立ちになると、記憶のパズルはあちこちが欠け落ちていた。
ナナセは静かに本を閉じた。
胸の奥が、小さなざわめきを立てて揺れる。
「どうした?」
向かいのソファから、セレンの低く落ち着いた声が届いた。
ナナセが顔を上げる。
「……いえ」
「本、つまらなかった?」
「違います」
ナナセは閉じた本を膝の上へそっと置いた。
「昔のことを……少し思い出していました」
「昔?」
「アルカに来る、もっと前のことです」
セレンは問い詰めたり急かしたりはしなかった。
ただ、手元のグラスを軽く傾けながら、静かな瞳でナナセを見つめている。
ナナセは少し迷うように視線を泳がせてから、ぽつり、ぽつりと小さな声で語り始めた。
「森を……歩いていたんです」
「……うん」
「何かに襲われて、必死で逃げて……気づいたら、たった一人で森の中にいました」
語る声はどこまでも淡々としている。
けれど、その灰色の瞳だけが、遠い過去の光景を映すように揺れていた。
「アルカの保護部隊の方に見つけてもらって……助かりました」
「そうだったんだ」
「はい」
ナナセは本の上質な表紙を、愛おしむように指先で撫でた。
「でも……その頃の記憶は、ところどころ抜け落ちていて……あまり覚えていないんです」
セレンはしばらくの間、黙っていた。
そして――。
「無理に思い出さなくていいんじゃない?」
それは、押し付けがましさの欠片もない、静かで優しい声だった。
ナナセがはっと顔を上げる。
「……」
「覚えてないなら、それでいいと思う」
セレンはそう言い添えると、何事もなかったかのように手元の本へ視線を戻した。
「だってナナセは今、ここにいるんだから」
あまりにも呆気なく、けれど何よりも重みのある言葉だった。
過去がどうであれ、失われた記憶があろうと関係ない。
今、セレンの隣でこうして生きているという事実だけを、セレンはごく当たり前に肯定してくれたのだ。
ナナセはしばらくの間、声を失って静まり返っていた。
胸の奥のざわめきが、温かな波となって静かに引いていく。
もう一度、膝の上の本をそっと開いた。
「……はい」
今度はほんの少しだけ、穏やかに微笑みながら。
小さな指先で、次のページをめくった。
隣ではセレンが静かに酒を口に含みながら、ページを繰っている。
夜は、二人を優しく包み込みながら、静かに更けていった。




