第34話 気分転換
食事を終えても、誰もすぐに席を立とうとはしなかった。
ダイニングには、午後の穏やかな陽光が優しく差し込んでいる。
フィリスは椅子に深く背をもたれさせ、手元の温かい飲み物をゆっくりと口に含んだ。
ナギとソラトは食後のどうでもいい他愛のない話を続けており、ヒヨリやセレンが時折二人の会話に小さく相槌を打っている。
ナナセもまた、セレンの隣で温かいハーブティーのカップを両手で包み込んでいた。
「……」
先ほどセレンからもらった、あの一粒の果物の甘い味が、口の中にまだ少し残っている気がする。
ナナセは小さな湯気が立ち上るカップを見つめ、それからそっと周囲を見渡した。
こうして食後に何もせず、ただ穏やかに座っていること自体が、ナナセにとってはどこか現実味のない不思議な時間に感じられた。
すると、ナギがふと思い出したようにナナセへ視線を向けた。
「そういえば、ナナセって普段何してるの?」
「……普段、ですか?」
「うん。任務とか訓練の予定がない時」
ナナセは少しだけ首をかしげ、自分の過去を振り返った。
「……特に」
「特に?」
「自分の部屋にいることが多かったです」
「へえ、部屋で何してるの?」
「……」
また少し考える。
「……何も、していなかったと思います」
ナナセの飾らない返答に、ナギが少しだけ黙る。
ソラトもそれ以上の追及はせず、どこか事情を察したように静かに口を閉じる。
すると、フィリスが雰囲気を切り替えるように、ゆったりと息を吐き出した。
「じゃあさ、今度から暇な時は庭園で昼寝でもしてればいいよ」
「……」
ナナセの脳裏に、今朝目にしたあの庭園の景色が鮮やかに蘇る。
風に乗って運ばれてきた花の香りと、清々しい噴水の水音。
「……そう、します」
「うん」
ナナセの素直な返事を聞いて、ヒヨリが穏やかに微笑んだ。
「あそこは静かだし、ナナセにはすごく合ってると思う」
その言葉に、ナナセは少し嬉しそうに小さく頷いた。
特別なことなど何一つない、食後のダイニング。
けれどナナセにとっては、こうして誰かと一緒に静かな時間を共有することそのものが、かけがえのない新しい体験だった。
◇
しばらくすると、フィリスがゆっくりと椅子から立ち上がった。
「さて、そろそろ少し体を動かそうか」
「賛成ー」
ナギも大きく背伸びをしながら立ち上がる。
「食後の運動にちょうどいいかもね」
「じゃあ行こうか」
ソラトとヒヨリもそれぞれのカップを片付け、席を立った。
どうやら、彼らはこのまま訓練所へ向かうらしい。
ナナセは座ったまま、彼らの動きを見上げた。
この温かく穏やかな時間が終わってしまうことに、胸の奥で少しだけ名残惜しさを感じていた。
すると――。
「ナナセはどうする?」
隣から、セレンが静かに尋ねてきた。
「……えっと」
ナナセは一瞬だけ息を止めた。
以前の自分なら、「訓練」と聞けば命令に従い、当然のように後ろをついていくしかなかった。
けれど、今は違う。
行くか行かないかを、自分自身の意志で決めていいのだ。
セレンは、いつだってそれを赦してくれる人だった。
ナナセは胸の奥で小さく深く、息を吸い込んだ。
「……行きます」
まだ消え入りそうなほど小さな声。
けれど、そこにははっきりとした自分の意志が込められていた。
セレンが一瞬、驚いたようにナナセを見つめる。
「うん」
そして、どこか嬉しそうに、ほんのわずかに口元を緩めて頷いた。
「じゃあ、行こう」
「はい」
ナナセもベッドを降りた時と同じように、自らの足で席を立った。
先に歩き出したフィリスたちの背中を追いかけるように、ナナセは自然とセレンの隣へと並ぶ。
以前なら、命じられて怯えながらついて行くだけだった。
今は、自分の意志で「行く」と決めて、セレンの隣を歩いている。
その違いは、側から見ればほんの小さな変化かもしれない。
けれど、ナナセにとっては、世界が反転するほど、大きな一歩だった。
静かな廊下へ出る。
少し前を歩くフィリスたちの賑やかな話し声が、心地よく響いていた。
セレンはいつものように、その少し後ろをゆったりとした歩調で歩いている。
ナナセはその隣を歩きながら、ほんの少しだけ顔を上げた。
「……」
訓練所へ向かう道が、今日はいつもより怖くなかった。




