第31話 眠る妖精
セレンが寝室を出てから、しばらく。
静かな部屋には、心地よい時間が緩やかに流れていた。
セレンはリビングのソファへ戻ると、テーブルに置きっぱなしだった本を無造作に手に取った。
けれど、ページを繰る指は途中で止まり、なかなか先へ進まない。
無意識のうちに、視線が何度も半開きのままにしてある寝室の扉へと向かってしまう。
「……さすがに気にしすぎか」
小さく呟き、セレンは視線を本へ戻した。
それからしばらくして――。
寝室の奥から、衣擦れの小さな物音が聞こえた。
セレンがパッと顔を上げる。
「……」
けれど、誰かが起きてくる様子はない。
どうやら、ベッドの上でナナセが寝返りを打っただけのようだ。
セレンは何度も気にする自分自身に苦笑いを浮かべ、今度こそ本へ意識を集中させた。
◇
それからさらに時間が経ち、昼を少し過ぎた頃。
ナナセは、ゆっくりと意識を浮上させた。
「……?」
最初に感じたのは、身を委ねるような深く柔らかな沈み込みだった。
背中に触れているのは、昨夜眠ったあの広々とした上質なソファとはまた違う、包み込まれるようなベッドの感触。
ゆっくりと身体を動かし、まぶたを開く。
視界に映ったのは、見慣れない天井だった。
ナナセはパチパチと瞬きをした。
ここは――セレンの寝室だ。
身体を起こそうとして、そこで初めて自分の体に温かい掛け布団が掛けられていることに気づく。
どうして自分はここにいるのだろう、と記憶の糸を辿る。
庭園からセレンの部屋へ戻ったこと。
眠るセレンを起こさないよう、ソファへ静かに身を沈めたこと。
そこから先の記憶が、すっぽりと抜け落ちていた。
ナナセはベッドの上で、呆然と固まってしまった。
その時、半開きの扉の隙間から、穏やかな声が落ちてきた。
「起きた?」
「……!」
ナナセが弾かれたように振り向くと、セレンがリビングからひょっこりと顔を覗かせていた。
「おはよう」
「……おはよう、ございます」
ナナセは戸惑いを隠せないまま返す。
セレンはナナセの呆然とした様子を見て、すぐに事情を察したようだった。
「覚えてない?」
「……はい」
「ソファでよく寝てたから、運んだ」
「……」
ナナセは自分の身体を見下ろし、それから掛けられた温かい布団を見つめた。
「……すみません」
「何で?」
「勝手に……寝てしまって」
「別にいいよ」
セレンはあっさりと、何でもないことのように答える。
「むしろ、あれだけ寝られるなら寝たほうがいい」
「……」
ナナセは少しだけ視線を落とすと、ぽつりと尋ねた。
「……私、どれくらい寝ていましたか?」
「三時間くらいかな」
「……」
ナナセは息を呑んだ。昨夜の睡眠時間を合わせれば、自分にとっては考えられないほどの長時間の休息だ。身体を苛んでいた重い疲労が綺麗に消えているのを、自分自身でも実感していた。
「身体、どう?」
「……すごく、軽いです」
「ならよかった」
セレンはそれだけ言うと、扉のフレームに肩をもたれさせた。
「腹減ってない?」
「……少し」
「じゃあ、何か食べに行く?」
ナナセは目を丸くした。
「今から……ですか?」
「うん」
セレンはベッドの側にある置時計へ視線を送る。時計の短針は、とっくに頂点を過ぎていた。
「俺もまだ昼飯食べてないし」
「……」
休日のセレンは、本当に食事の時間までどこまでも適当で気ままらしい。
ナナセの緊張がふっと抜け、小さな微笑みがこぼれた。
「はい」
「じゃあ、準備して」
セレンは扉から体を離す。
「急がなくていいからね」
そう言って、一足先にリビングへ戻っていった。
ナナセはベッドの上に座ったまま、セレンの背中を見送ると、ふと自分の両手を見つめる。
今までの自分なら――。
理由もなく眠ってしまったことを、必死に謝っていた。
身体を休めてしまったことも。
何も成果を生み出していない時間も、すべてを恐怖とともに詫び続けていた。
けれど、セレンの世界にはそんな咎めは存在しない。
自分の中の冷たい「当たり前」が、温かい光の中で静かに崩れ去っていく。
ナナセは掛け布団をそっと愛おしそうに撫で、ベッドを降りた。
寝室を出ると、ソファからセレンが顔を上げる。
「おかえり」
「……?」
「さっき庭園から戻ってきたときも言ったけど」
セレンは立ち上がり、背伸びをしながら可笑しそうに言った。
「ちゃんと戻ってきたなと思って」
ナナセは一瞬、その言葉の本当の意味を考えた。
「セレンの部屋」を自分の帰る場所として選んで戻ってきたのだということを。
そして、今度は迷うことなく、小さく嬉しそうに笑った。
「……はい」
「じゃ、行こっか」
「はい」
二人は並んで、静かな部屋をあとにした。
今度はナナセの足取りも、いつもよりほんの少しだけ軽やかだった。




