第3話 安寧の欠片
ナナセの予想は、少しずつ外れていった。
一日経っても。
二日経っても。
セレンは、何も命じなかった。
朝、訓練所へ向かうときも、
「今日も自由にしてていいから」
ただ一言、それだけだった。
訓練が始まってからも、魔力を貸せと言われることはない。
補助を頼まれることも、側にいろと言われることもない。
セレンは自分のことは自分で済ませるように、黙々と訓練を続けていた。
時折、すれ違いざまに、
「腹減ってない?」
「……いえ」
「ならいい」
それだけ。
夕方、訓練が終われば、
「忘れ物ない?」
「ありません」
「じゃあ戻っていいよ」
それだけ。
必要なことしか言わない。けれど、それ以上を求めてくることもない。
ナナセは少しずつ、その状況に慣れ始めていた。
何より怖くない。怒鳴られない。
無理に魔力を使わされることもない。
何もしなくても、追い出されることはない。
それは、ナナセにとって初めてのことだった。
だからこそ――どうしていいのか、分からなくなっていた。
◇
訓練所の隅。
今日もナナセはそこにいた。
ただ今日は飛ぶのをやめ、人間ほどの大きさのまま壁際のベンチに腰掛けている。
「座ってていいんだよ?」とフィリスに言われてのことだった。
変わらないのは、視線の先にセレンを捉えていること。
ナイフを手に、標的へ向かって歩いていく。
構える。投げる。
乾いた音を立てて、刃が突き刺さる。
次のナイフを取り出す。また投げる。
無駄のない動きだった。
ナナセはぼんやりとそれを見ていた。
別に、何かをするつもりはない。命令されていないから待っているだけ。
そう思っているのに、セレンが動くと自然と視線が追ってしまう。
誰かと話していれば声が耳に入り、訓練をしていればその動きを見つめてしまう。
何をしているのかを知りたいわけでもない。近くにいたいわけでもない。
ただ、気づけば目で追っている。
「……」
自分でも少し変だと思った。けれど、その理由は分からない。
「何してるの?」
不意に声をかけられ、ナナセは顔を上げた。ヒヨリが隣に立っている。
「……見ています」
「うん、それは分かるけど」
ヒヨリは苦笑した。
「ずっとセレンのこと見てるから」
「……」
ナナセは答えに詰まった。
言われてみれば、そうかもしれない。けれど、どうしてそうしているのかは自分でも説明できなかった。
「……何か、言われるかもしれないので」
「え?」
「命令です」
「ああ……」
ヒヨリは少しだけ目を伏せた。
ナナセはそれ以上、何も言わなかった。
命令されるなら、すぐに動けるようにしておく。ただそれだけのことだった。
「でも、セレンはあんまり命令しないでしょ?」
「……はい」
「じゃあ、休んでてもいいんじゃない?」
「……」
ナナセは少し考えた。
「……そう、ですよね」
ヒヨリは何か言いかけたが、結局それ以上は追及しなかった。
「まあ、慣れるまで時間はかかるよね」
「……はい」
ヒヨリが離れていく。
ナナセは再び、セレンへ視線を戻した。
そのときだった。
ナイフを収めたセレンが、ふとこちらを振り向く。
視線が、かちりと重なった。
ナナセの身体がわずかに強張る。
セレンは数秒、じっとこちらを見ていた。
「……何?」
「……いえ」
「そう」
それだけ言うと、セレンはすぐに視線を戻した。
ナナセも膝の上へ視線を落とす。
何か指示が出されるのかと身構えてしまった。
今までなら、ただ見ているだけでも「何をしているのか」と咎められた。
休んでいればサボるなと言われ、何か仕事をし続けていた。
「役に立たないならもう必要ない」と烙印を押されている気がしてならなかったのだ。
だから、何もしないでいることが、ナナセにはまだ少し落ち着かなかった。
けれど、セレンは何も言わない。
見ていても。
休んでいても。
何もしていなくても。
ただ、そこにいることを許されている。
ナナセは小さく息を吐いた。
まだ、よく分からない。この人が何を考えているのかも、なぜ自分をここに置いているのかも。
ただ――「自由にしてていい」という言葉だけは、どうやら本当らしい。
そのことだけが、静かに染み込んできていた。




