第2話 新しい主人
翌日になっても、二人の間にはどこかぎこちない空気が漂っていた。
セレンはナナセに割り当てられた部屋の前に行き、ドアを軽くノックする。昨晩「今日は休め」と言って別れた手前、本当に休んでいたのか確かめる意味もあった。
「……おはよ」
「おはようございます」
カチャ、と扉が開くと、ナナセは昨日と変わらず淡々とした表情で立っていた。疲れが残っている様子はない。ただ、どこか緊張した面持ちだけがある。
「今日は訓練所に行く。……とりあえず、ついてきて」
「分かりました」
ナナセは小さく頷くと、静かにセレンの後ろへ続いた。
訓練所へ向かう道中、前を歩くセレンがふと思い出したように口を開く。
「自由にしてていいから」
「……はい」
それだけだった。
ナナセは少しだけ目を瞬かせたが、何かを尋ねることはしなかった。
自由にしていい。
昨日も「何もしなくていい」と言われた。
その意味を、ナナセはまだよく分かっていなかった。
訓練所に着くと、セレンは昨夜談話室で顔を合わせた仲間たちと合流した。
ナナセは訓練所の端で手のひらほどの小さな姿になり、宙に浮かびながら「いつ指示が飛んできてもいいように」と待っていた。けれど、しばらく待っても何も言われない。
セレンはナイフを手にして訓練を始める。
ナイフが空を切る。
続いて銃を手に取る。
少し離れた場所では、フィリスたちが模擬戦を始めていた。
ナナセはその様子を黙って眺めていた。
魔力を貸せとは言われない。
補助をしろとも言われない。
側にいろとも、離れろとも言われない。
最初のうちは、いつ声をかけられてもいいように身構えていた。セレンがこちらを見ればすぐに返事ができるように。手を止めれば何か命令が来るのではないかと。
けれど、何も起こらないまま時間だけが過ぎていった。
「ナナセ」
しばらくして、不意に横から声をかけられた。
「はい」
振り向くと、ナギが立っている。
「ずっとそこにいるけど、暇じゃない?」
「……え?」
「退屈ってこと」
ナナセは少し考えた。
「……分かりません」
「そっか」
ナギは苦笑する。
「こっちで座ってたら?」
「えっと……」
「飛びっぱなしも疲れるでしょ。おいでよ」
その言葉に、ナナセは小さく頷いた。ふわりと風に乗って飛んでいき、ナギやソラトたちが腰掛けているベンチの近くに着地する。
「ちっちゃ」
ソラトが覗き込んできた。
「妖精って、好きな大きさになれるんだっけ?」
「はい」
「じゃあ、元の大きさに戻れる?」
「……戻れます」
「見せてもらってもいい?」
「はい」
再び淡い光が弾ける。そこに現れたナナセを見て、ソラトが目を丸くした。
「おお……」
「小さいほうが便利そうだな」
何気なく呟かれた言葉に、ナナセの表情がほんの少しだけ緩んだ。
「……ありがとうございます」
それだけ言って、ナナセは小さく微笑む。
自分の力が役に立つ、使える――そう認められるのは、嫌ではなかった。
少し離れた場所からそれを見ていたセレンは、何も言わなかった。
ただ一度だけナナセへ視線を向け、それから再び手元のナイフへ目を戻した。
ナナセも、そんなセレンの背中を見つめていた。
昨日からずっと、あの人は何も言わない。
変な主人だと思う。
主人なら、もっと色々と命じるものだと思っていた。
何をするのか。何が必要なのか。何をしてはいけないのか。
そういうことを決めるのが、主人という存在なのだと。
けれどセレンは、何も決めない。
「自由にしてていい」
そう言って、それ以上は何も求めてこない。
ナナセには、それが少し不思議だった。
けれど、不思議だからといって期待するようなことはない。
今までだって、主人の気が変わることはあった。
最初は何も言われなくても、そのうち命令される。
最初は何も求められなくても、いずれ必要なことを要求される。
それが普通だった。
だから、今回も同じなのだろう。
まだ、始まったばかりなだけだ。
セレンが自分をどう使うのか、まだ決めていないだけ。
そう考えれば、何もおかしくはない。
夕方になり、訓練が終わると、セレンがナナセの元へ歩み寄ってくる。
「今日はもう終わり。部屋に戻っていいよ」
「……はい」
「明日も訓練だから」
「分かりました」
それだけ言って、セレンは先に歩き出す。
ナナセはその背中を見つめた。
やはり、何も命じられなかった。
それでも、特に胸が揺れることはない。
命令されれば従う。
必要とされれば働く。
何も言われなければ、ただ待つ。
それだけでいい。
主人が変わった。
ただ、それだけのことだ。
だから――今までと、何も変わらない。
ナナセはそう自分に言い聞かせるように思いながら、静かにセレンの後を追った。




