第29話 迷いと、優しい声
しばらくして。
ナナセは噴水の縁から静かに立ち上がった。
そろそろ、ここを発とう。
そう思ったものの――。
「……」
その足が、ぴたりと止まる。
お邪魔しますとは言ったものの、セレンの部屋へ戻るべきなのかどうか、決めかねていたのだ。
セレンは「好きに使っていい」と言ってくれた。
それから、「疲れたら戻っておいで」とも。
けれど、自分には、本来割り当てられた自分の部屋がある。
それに、セレンは今日がせっかくの休日だ。
何も理由がないのに、自分がずっと部屋に居座っているのもどうなのだろうか。
昨夜は眠れないからという明確な理由があった。
けれど、今はもう朝だ。
「……自分の部屋に、戻ったほうがいいのかな」
ナナセは小さな声でぽつりと呟いた。
仕事のない妖精は自分の部屋へ戻る。それがきっと、客観的な「普通」なのだと思う。
そう自分に言い聞かせ、庭園の一般区画側の出口へと向かおうとした。
その時――。
少し離れた廊下の奥から、人の話し声が風に乗って聞こえてきた。
「……!」
ナナセの身体が弾かれたように固まる。
風に混じってかすかに耳へ届く、何人かの隊員たちの声。
それは自分が元いた第五部隊を含む、別部隊たちの居住区や、個人の部屋へ繋がる通路の方向から聞こえていた。
「……」
理由を思索するよりも早く、無意識のうちに全身が強張り、胸の奥がキュッと縮み上がる。
ナナセは一般出口へ向けていた脚を、ゆっくりと止めた。
怖い――。
思考が追いつく前に、身体が冷たい恐怖を感知していた。
ナナセはしばらくの間、その場に棒立ちになっていた。
やがて、ナナセは逃げるように一般出口から視線を逸らす。
そして、反対側にある屋根付きの渡り廊下の先――セレンの部屋がある特別部隊の区画へと続く方向へ目を向けた。
「戻っておいで」
セレンが残していってくれた言葉が、脳裏に優しく蘇る。
セレンは「自分の部屋へ帰れ」とは言わなかった。
セレンの部屋に戻ってもいいのだ。
そう思い至った瞬間。
強張っていたナナセの足が、自然と一歩を踏み出していた。
一歩、また一歩。
気づけば自分は、吸い寄せられるように渡り廊下を歩いている。
「……」
自分でも少しだけ不思議だった。
さっきまでは邪魔になるかもしれない、と恐縮していたはずなのに。
あの飾らない優しい声を思い出すだけで、その温もりに縋り付きたいと願ってしまっていた。
やがて、見慣れ始めたセレンの部屋がある区画が見えてくる。
ナナセは歩みを少し緩めた。
本当にここへ戻ってもいいのだろうか。
そんな迷いと気兼ねは、まだ胸の奥に少なからず残っている。
それでも――今は自分の部屋へ帰るより、あの場所へ向かいたいと心が叫んでいた。
ナナセは溢れそうになる感情を抱えながら、静かに、けれどしっかりと歩を進めていった。




