第28話 揺れる羽
ナナセは庭園の中央にある小さな噴水へ近づくと、その縁へ静かに腰を下ろした。
水面が澄んだ朝の光を受けて、きらきらと眩しく揺れている。
拠点の中心にある大きな庭園とは違っていた。あちらは常に人の往来が多く、休憩している隊員や訓練の合間に立ち寄る者たちでどこか騒がしい。
けれど、ここには本当に誰も来ないようだった。
聞こえるのは、噴水から絶え間なく溢れる水音と、木々の葉が風に揺れる心地よい音だけ。
ナナセは庭園の入り口へ一度だけ視線を向ける。
セレンと一緒にここへ来る途中も、誰一人としてすれ違わなかった。
その静けさが、ナナセの心には何よりも心地よかった。
以前なら、息抜きに大きな庭園へのほうに行くこともあった。
けれど、体調を崩してからは、人の集まる場所へはほとんど近寄れなくなっていたのだ。
カネルたち五部隊の人間と鉢合わせる可能性もある。彼らの姿を遠目に見つけるだけで、身体が勝手に固まってしまう。
だから、人の多い場所へ行くこと自体をずっと避けるようになっていた。
(……ここなら、大丈夫そう)
ナナセは噴水の縁に両手を置き、少しだけ顔を上げて空を見上げる。
狭い庭園を、やわらかな朝風が通り抜けていく。
満開の草花の甘い香りが風に乗って、ふわりと鼻先をくすぐった。
「……いい匂い」
自然とまぶたが閉じる。
風が白金色の髪を優しく揺らす。
身体の奥深くに滞っていた魔力が、まるで氷が解けるようにゆっくりとほどけていく感覚があった。
大気に漂う微かな精霊の気配を、肌で感じる。
冷たい部屋の中に閉じこもっていた時とは違う。
誰かの嫌な魔力も、脅かす足音も、監視する嫌悪に満ちた視線もない。
ただ、豊かな自然だけが自分を包み込んでくれている。
ナナセは深く息を吸い込んだ。
そして、吐く。
もう一度、ゆっくりと胸を満たす。
「……」
こんな風に何もせず、ただそこに座っていることを、五部隊の人たちは許さなかっただろう。
そして、自分自身もそれを許していなかっただろうと気付かされる。
休むのなら明確な理由を探していた。
横になるなら許可が欲しいと思っていた。
何も生み出さない時間は、存在する価値がないと、自分でさえ決めつけていたのだ。
ナナセは目を閉じたまま、絶え間ない水音に耳を澄ませていた。
そして――自分でも気づかないうちに。
その薄い唇には、ごく小さな、けれど確かな笑みが浮かんでいた。
◇
その頃、庭園へと繋がる渡り廊下を、ナギとソラトが並んで歩いていた。
これから朝の自主訓練へ向かうところだった。
「今日、どっちからやる?」
「先に走り込みじゃない?」
「えー、朝から走んの?」
そんな他愛のない会話を交わしながら歩いていた二人だったが――。
ふと、先を歩いていたソラトが足を止めた。
「……あれ」
「ん?」
ナギもつられて足を止める。
渡り廊下の脇にある、小さな隠れ家のような庭園。
その中央の噴水に、誰かがぽつんと座っていた。
「ナナセ……?」
二人は思わず声を潜めた。
噴水の縁に腰掛けているのは、紛れもなくナナセだった。
朝の光を全身に浴びながら、時折足を揺らして、静かに目を閉じている。
光に照らされた白い髪が風に揺れ、細い髪の毛の一本一本が朝陽を透かして、きらきらと神秘的な輝きを放っていた。
そして、その背中に伸びる繊細な羽。
風を受けるたびに可憐な羽が微かに揺れ、光を拾って淡く美しい粒子のように輝いていた。
「……」
ナギは言葉を失い、ソラトも息を呑んで固まっていた。
普段、二人が訓練所で見ているナナセとは、まったく違っていた。
訓練所の隅で気配を消して静かに座っている姿。
セレンの後ろを恐る恐るついて歩く姿。
人に怯えて身体を小さく強張らせる姿。
そんな痛々しい印象とは、まるで違う。
今のナナセは、まるで自然そのものに溶け込んでいるようだった。
目を閉じ、風を感じながら静かに佇んでいる。
花の香りを含んだ風が吹き抜けた。
白い髪がふわりと大きく舞う。
その瞬間、光を浴びた羽の縁が、眩しい朝陽をきらりと弾いた。
「……綺麗」
ソラトが、思わずぽつりと呟いた。
「……うん」
ナギもそれを否定しなかった。
二人とも、しばらくその場から動くことができなかった。
安易に声をかけることすら、ためらわれるほどだった。
あまりにも静かで。
あまりにも、その光景に馴染んでいて。
まるで最初から、この庭園に咲く一輪の花であるかのように見えた。
ナギが深く、小さく息を吐き出す。
「妖精って……あんな感じなんだな」
「……ね」
またふわりと風が吹いた。
ナナセの髪と羽が優しく揺れ、朝の光を受けて淡く輝く。
二人はしばらくの間、その神聖な光景を黙って見つめていた。
やがて――。
ナギが声を殺して提案する。
「……訓練、行くか」
「……うん」
そう答えながらも、二人は最後にもう一度だけ庭園へと視線を向けた。
その奇跡のような美しい時間を壊してしまわないように。
二人は音を立てず、そっと静かに渡り廊下を通り過ぎていった。




