第23話 休日
キサが部屋を出ていった後。室内には再び穏やかな静けさが戻ってきた。
キッチンから響いていた水音が止まり、手やグラスを軽く洗い終えたセレンがリビングへ戻ってくる。
そのまま自分のソファへ向かおうとして――ふと、セレンは足を止めた。
「……あれ」
セレンは灰色の瞳で室内をぐるりと見渡す。
椅子に適当に掛けられていた自分の外套が、部屋の隅のハンガーへ綺麗に掛け直されている。
机の上で散らかっていたレザーグローブも、いつの間にか定位置へ片付いていた。
さらに先ほど立ったキッチンを思い返し、昨夜使ったグラスだけでなく、溜まっていた皿まですべて綺麗に洗われて水切りカゴに並べられていたことに改めて気づく。
「……」
セレンはしばらく無言で部屋を見つめていた。
それから、ソファで毛布に包まっているナナセへ静かに視線を向ける。
「……え、ありがとう」
「……」
ナナセは少し驚いたように、ぽかんと顔を上げた。
「いえ……」
「片付けてくれた?」
「はい」
「そっか」
セレンは素直に頷いた。
お説教をする風でも、特別に恐縮する風でもなく、そのままソファの向かいにある椅子へ腰を下ろす。
ナナセは膝の上の毛布を見つめ、少しだけ不安そうに視線を落とした。
「勝手に……片付けてしまって……」
「別にいいよ」
セレンは何でもないことのように告げる。
「むしろ助かった」
「……」
その飾らない言葉に、ナナセはほんの少しだけ目を丸くした。
――「ありがとう」と言われる。
ただそれだけのことなのに。
胸の奥がキュッと締め付けられるような、なんだかとても不思議な感覚だった。
命令されたわけでもない。
無理をして役に立とうとしたわけでもない。
ただ、目の前にあるものを綺麗にしたいと思って動いただけ。
「……どういたしまして」
消え入るような声で、けれど心を込めて小さく返す。
セレンはそれを耳にして、ほんの少しだけ口元を優しく緩めた。
「うん」
二人の間に、どこまでも静かで心地よい時間が流れ始めていた。
ナナセは膝に掛かった厚手の毛布を、少しだけ丁寧に整えた。
「……あの」
「ん?」
「今日は、お休みなんですか?」
セレンは壁の時計へ少し考えるように視線を送る。
「うん。久しぶりにね」
「そうなんですね」
ナナセは先ほど寝起きの姿で出てきたセレンに、少しだけ納得したように頷いた。
セレンはソファの向かいの椅子に座ったまま、灰色の瞳でナナセを見る。
「ナナセは?」
「……?」
「今日、何か予定ある?」
「ありません」
即答だった。
セレンは少し目を細める。
「そっか」
それ以上は理由を聞かない。
ナナセも、何となくセレンの顔を見返していた。
休日――。自分には、そんな概念がない。
五部隊にいた頃は、任務がない日であっても、絶え間ない監視魔法の訓練や魔力の微調整を命じられ続けていた。
だから「休日の予定」と言われても、何をして過ごせばいいのか、見当もつかない。
「……」
ナナセが静かに黙り込んでいると、セレンがふと思いついたように口を開いた。
「暇なら、ここにいていいよ」
「え?」
「俺も今日はどこかに出かける予定もないし」
ナナセは少し戸惑い、瞳を揺らした。
「……ずっと、ですか?」
「別に」
セレンは軽く肩をすくめる。
「好きな場所にいていい」
「……」
その言葉を聞いて、ナナセは静かな部屋の中を見渡す。
昨日までの自分なら、そんな自由を与えられても落ち着かずに怯えていたかもしれない。
けれど――。
「……では」
ナナセは胸の奥で小さく息を吐いた。
「少しだけ、お邪魔してもいいですか?」
「うん」
セレンはあっさりと頷く。
「好きにして」
それからセレンはぬっと立ち上がり、静かなキッチンのほうへ視線を向けて何かを考え込むと、再びナナセへ視線を戻した。
「朝は何か食べるタイプ?」
「……日によります」
ナナセの返事を聞いて、セレンは軽く首を縦に振る。
「じゃあ、何か食べにダイニング行くか」
そう言いながら、キッチンの周りをもう一度だけ見て可笑しそうに肩をすくめた。
「俺、基本部屋に食べ物置いてないんだよね」
淡々とした口調だった。言われてみれば、先ほど綺麗に片付けたキッチン周りは調理器具もなく、ほとんど使われている形跡がなかった。
ナナセは少しだけパチパチと瞬きをする。
「……外で、ですか?」
「うん。食べに行ったほうが早い」
セレンはそのまま踵を返す。
「準備できたら行こ」
ナナセはソファの上から、その背中を見送った。
セレンは部屋の奥へ向かう途中で、「あ」と足を止めて振り返る。
「来る?」
「……はい」
ナナセは毛布を少しだけ整えてから、そっと立ち上がった。
休日の朝。
誰かがそばにいて。
一緒に外へ出る。
そんなごく当たり前の日常の流れを、ナナセはまだ上手く理解できていなかった。
けれど――。
少なくとも今日という日は。
このままセレンの後ろをついて行ってもいい気がしていた。




