第19話 巡回時間
ナナセが、何度目かの浅い眠りから目を覚ました。
ゆっくりと上半身を起こし、ぼんやりとした瞳で周囲の気配を探るように見渡す。
セレンは開いていた本を静かに閉じた。
「ナナセ」
呼びかけると、その声が届いたのか。
ナナセの灰色の瞳に、少しずつ現実の意識が戻ってくる。
「……」
数秒遅れて、目の前にいるセレンの姿を認識した。
「……申し訳、ありません……」
「?」
セレンがかすかに眉を寄せる。
「何が?」
ナナセは答えない。
自分でも、なぜ目覚めて開口一番に謝罪を口にしたのか分かっていない様子だった。
セレンは少しだけ考え、それから声を低く落とした。
「前の人に、そう指示されてた?」
「……!」
ナナセの瞳が、動揺に揺れた。
一気に眠気が吹き飛んだわけではない。けれど、さっきまでの虚ろだった表情が、身構えるように固くなっていく。
「……」
ナナセは膝の上で、掛けられた毛布をぎゅっと握りしめた。
何かを答えようとして――けれど、言葉を飲み込む。
そのまま視線が床へと落ちた。
「……」
セレンは決して回答を急かさなかった。
ただ静かに、ナナセの小さな横顔を見つめている。
やがてナナセが、消え入るような声で小さく口を開いた。
「……その……」
けれど、あとの言葉が続かない。
本当のことを言っていいのか。言ったら、怒られるのではないか。
そんな恐怖と迷いが、その表情に浮かんでは消えていた。
セレンはしばらく待った。
そして、決して追及するのではなく、ただ事実を確認するように淡々と告げる。
「二時間おきに起きて、周囲を確認するようにって?」
ナナセの指先が、ぴくりと跳ねた。
それだけで、セレンにとっては十分すぎる答えだった。
セレンは静かに目を伏せる。
「……そう」
ナナセは答えなかった。けれど、否定もできなかった。
セレンはそれ以上、過去のことを一切聞かなかった。
「もう、必要ないよ」
「……」
「ここでは、起きなくていい」
ナナセが顔を上げた。
「……でも」
「俺が起きてる」
その遮るような力強い一言に、ナナセは息を呑んで黙り込む。
セレンは何事もないように、手元にあった本を再び手にとった。
「何かあったら、俺が気づく」
「……」
「だから、寝てていい」
ナナセはしばらくの間、セレンの静かな横顔をじっと見つめていた。
やがて――。
そっと毛布を胸元まで引き上げる。
「……はい」
小さな、けれど素直な返事。
そして、ゆっくりとソファの上に横になった。
今度は、さっきまでのように義務的に目を閉じるのではない。
どこか安心したように、ふわりと瞼を落とした。
セレンはその穏やかな寝顔を見届けてから、再び本を開いた。
けれど、ページをめくる指先は、先ほどよりもずっと静かでゆっくりとした足取りだった。
――それから、しばらく。
ナナセは時折、浅い眠りの中で少し身じろぎをすることはあった。
けれど、もう二時間おきに跳ね起きることはなくなった。
セレンは本を読み進めながら、ときどきソファへ優しく視線を遣う。
ナナセは眠っている。
静かで穏やかな寝息。
毛布にすっぽりと包まれた小さな身体。
先ほどまでのように、怯えいるような気配はどこにもなかった。
やがてセレンも、今日一日の疲労を感じて立ち上がった。
静かに奥の浴室へ向かい、しばらくして戻ってくる。
扉を閉める音。
タオルで髪を拭く音。
さっきまでのナナセなら、不吉な気配と誤解して跳ね起きてもおかしくない程度の物音だった。
けれど――。
「……」
ナナセは起きなかった。
セレンはふと足を止め、ソファのほうを見つめる。
毛布の中で丸くなり、安心しきった規則正しい寝息を立て続けている。
セレンは胸の奥の重荷が降りたように、小さく安堵の息を吐き出した。
「……よかった」
誰に聞かせるでもなく、ぽつりと呟く。
セレンの肩から、ほんの少しだけ緊張の力が抜けた。
身体を休ませるため、このまま奥のベッドへ運んでやろうか、とも考えた。
けれどセレンは少し迷ってから、その考えを改めた。
今のこの貴重な眠りを、自分が破ってしまうような気がしたからだ。
ソファの前へ静かに腰を落とし、毛布の端をそっと手繰り寄せると、肩まで丁寧に掛け直してやる。
ナナセは小さく「ん……」と身じろぎをしたものの、目を覚ますことはなかった。
「……」
セレンは立ち上がる。
部屋の天井の大きな照明を落とし、代わりに壁際の小さなランプだけに明かりを灯した。
柔らかな橙色の光が、ソファの周囲を淡く優しく照らし出す。
これなら、万が一夜中に目を覚ました時も、暗闇に怯えずに済む。
セレンは一度だけ振り返り、穏やかに眠るナナセの姿を目に焼き付けた。
そして、静かに奥の寝室の扉を開け、中へと入っていった。
ガチャリと扉が静かに閉まる。
残されたリビングには、時計の規則正しい針の音と、淡いランプの光、そしてナナセの安らかな寝息だけが静かに満ちていた。
今夜だけは――。
長年その身体に刻み込まれていた『二時間ごとの過酷な夜』が、ほんの少し遠くへ去っていた。




