第176話 優しい拒絶
交流戦が終わると、戦場に漂っていた張り詰めた空気もようやくほどけていった。
アルカではこのあと、他ギルドとの軽い交流会を兼ねた宴が開かれるため、館のあちこちが少しずつ賑やかになっていた。
セレンは騒がしい輪から離れ、一度自分の部屋へと戻っていた。
着ていた外套の胸元へ手を添え、いつものように優しく声をかける。
「ナナセ?」
けれど、返事はない。呼吸すら殺しているかのように静かなままだった。
「……ナナセ」
胸の奥に少しだけ不安がよぎり、セレンはもう一度呼びかけた。
「部屋戻ったよ。出ておいで」
しばらくの静寂のあと。
外套の内側から、小さな身体がゆっくりと這い出てきた。
けれど、セレンの方を見ようとはせず、そのままふわりと床へ降り立つと、近くのソファの上で人の大きさへと戻った。
「……え」
セレンは不意に眉をひそめた。
俯いたままのナナセの頬には、はっきりと涙の跡が残っていた。
「ナナセ、大丈夫?」
セレンはすぐに彼女の目の前へ屈み込むと、そっと涙で濡れた頬へ手を伸ばした。
指先で、残っていた温かい涙を優しく拭う。
それでもナナセは、顔を上げようとしなかった。
「……ごめんなさい」
絞り出すような、小さな声に、セレンの手がピタリと止まる。
「なんで謝るの?」
責める風もなく、優しく語りかけるように問いかける。
ナナセは固く唇を結んだ。
理由を言わなければ。
そう思うのに、喉の奥が固く詰まって声が出ない。
あの森での出来事を思い出すだけで、全身の身体がまた動かなくなるような恐怖が蘇ってくる。
「……」
セレンは決して言葉を急かさなかった。
ただ、静かに泣いているナナセの前に屈み込んだまま、じっと見つめている。
「……あの時、なにがあったの?」
その声はどこまでも穏やかだった。
彼女を咎めるような響きは、どこにも含まれていない。
けれど、それでも、ナナセは本当のことを答えられなかった。
「……っ」
胸の奥が張り裂けるように苦しくなる。
あの場所でカネルに会ったこと。
羽を強く掴まれたこと、恐ろしい声で命令されたこと。
そして自分自身が、その本能の命令に従って動けなくなってしまったこと。
その全てを話してしまえば、セレンはきっと自分のために傷ついてしまう。
必死に自分を守ろうとしてくれているセレンに、また自分の情けない弱さを見せることになってしまう。
「……ごめんなさい」
口を開けば、また同じ謝罪の言葉ばかりがこぼれ落ちた。
セレンは少しだけ悲しそうに目を伏せる。
それから、静かに泣いているナナセの頭の上へ、そっと大きな手を置いた。
「……謝らなくていいよ」
髪の毛をゆっくりと優しく撫でる。
「話したくなったらでいい」
セレンのその温もりに、ナナセの肩が小さく震えた。
セレンはそれ以上、何も言わなかった。
ただ、自分の前で泣いているナナセの傍らに屈み込んだまま、静かにその頭を撫で続けていた。
しばらくの静寂が流れたあと。
ナナセが意を決したようにゆっくりと口を開いた。
「……セレンさん」
「ん?」
「……羽を、握ってもらえませんか」
涙に濡れた、痛々しい声だった。
セレンの撫でていた手が止まる。
「……え?」
ナナセは俯いたまま、震える声で哀願するように続けた。
「握って……ください」
どうして、急にそんなことを言い出しているのか。
今のセレンにはその真意が分からない。
けれど、ナナセの必死な表情を見れば、それがただの気まぐれな願いなどではないことだけは分かった。
何かに強く縋りつくような、悲痛な顔。
「……っ羽を」
ナナセは、セレンだけに心も体も従いたかった。
もう、自分が服従するべき相手はカネルなどではない。
自分の大切な主人はセレンなのだと。
その事実を、過去の命令を覚えてしまっている自分の身体にも強く分からせたかった。
だから――。
どんな無理な指示でもいい。
支配のための命令でもいい。
カネルが自分に植え付けた恐ろしい残像を、セレンの言葉と力で塗り潰し、上書きしてほしい。
そうすれば、もう二度と迷わずに済む気がした。
「……お願い、します」
小さく懇願する声に、セレンの顔が、辛そうに深く歪んだ。
森で何があったのかの詳細は、まだ分からない。
けれど、ナナセが今、どんな思いで自分に何を求めているのかだけは、はっきりと伝わっていた。
「……ナナセ」
セレンはゆっくりと腕を伸ばす。
けれど――彼女の羽を力任せに掴むような真似は、絶対にしなかった。
そのまま、震えるナナセの身体全体をそっと自分の胸元へ抱き寄せる。
「……っ」
ナナセの小さな身体が、セレンの温かい胸の中へすっぽりと収まる。
そして――。
セレンの指先が、背中にある羽の根元へそっと触れた。
支配するために掴むのではなく。
まるで壊れ物や宝物に触れるかのように、ゆっくりと愛おしそうに撫でていく。
「……なんで」
ナナセはふっと、諦めたように目を閉じた。
そんなことを問わなくても、最初から分かっていたはずだった。
セレンは絶対に、自分の羽を強く握ったりしない。
自分を無理やり従わせるために、主従の力を使ったりなど絶対にしない。
私を、尊重してくれる人だから。
それでも――そのあまりにも深すぎる優しさが、今の自分には酷く苦しかった。
「っう……、……」
押し殺していた小さな嗚咽が、セレンの胸元で漏れ出す。
セレンはナナセを抱く腕に、ほんの少しだけ力を込めた。
「俺は、そんなことしないよ」
静かだが、固い決意の込められた声だった。
羽を優しく撫で続けながら、何度も何度も彼女を宥めるように言葉を重ねていく。
「ナナセを、無理やり従わせたりしない」
「……」
「ナナセが大切だから」
ナナセの瞳から溢れた涙が、また留まることなく頬を伝ってセレンの服を濡らした。
「……でも」
「うん」
「私……っ……」
情けなさと愛おしさが混ざり合い、言葉が上手く続かない。
セレンは決して急かさず、ただ背中の羽を穏やかに撫で続けた。
「大丈夫」
その温かい一言に、ナナセはセレンの胸の中で、また小さく声を上げて泣いたのだった。




