第175話 従うのは
ポケットの中で、ナナセはじっと身体を丸めて縮めていた。
厚い布地の外からは、楽しげなフィリスたちの会話が途切れ途切れに聞こえている。
無事に交流戦に勝ったことを喜ぶ声。
今日のそれぞれの戦いを賑やかに振り返る声。
そして、自分をポケットに抱いて歩くセレンの規則正しい足音。
いつもなら、その音と気配を感じるだけで、胸の奥が少し温かくなって安心できるはずだった。
けれど今は、あの恐怖の瞬間が頭の中からどうしても離れてくれない。
「動くな」
あの冷たい声、羽を容赦なく掴まれた触感。
自分の身体が、自分の意思とはまったく関係なく石のように止まってしまったあの瞬間。
「……」
ナナセは自分の両羽をかばうように抱きしめ、小さな身体をさらに丸めた。
もう、自分の主人はカネルではない。
今の自分の大切な主人は、セレンなのだ。
それなのに――あの男に命令された瞬間、自分は何もすることができなかった。
恐怖から逃げることも、声を張り上げて抵抗することも。
助けを求めて声を上げる気力すら、奪われてしまっていた。
「……っ」
あまりにも悔しかった。
そして、悲しかった。
あれほどセレンの側にいて、たくさんの優しさを受け取ってきたのに。
今度こそ自分がセレンを守りたいと、彼の役に立ちたいと心から思っていたのに。
あの時の自分は、ただ過去の命令と本能に従うことしかできなかった。
ナナセの瞳に、じわりと温かい涙が滲んでいく。
もう、あの辛かった頃の自分とは違うはずなのに。
心はセレンを選んだはずなのに、身体だけがあの頃の恐怖と主従関係のまま取り残されているかのようだった。
「……どうして」
声にならないほどの低さで、小さく呟く。
どうして、あの男の言葉にまだ従ってしまうのだろう。
どうして、自分は何もできない弱いままなのだろう。
セレンが今まで自分を守ってくれた。
誰よりも大切にしてくれた。
恐ろしい籠から出して、自由にしてくれた。
自分で考えて、自分でこれからの道を選んでいいのだと、不器用ながらも少しずつ教えてくれた。
それなのに――。
いざ昔の命令を前にしたら、何もできずにただ縮こまることしかできなかった。
堪えきれなくなった涙が一粒、頬を静かに伝って落ちた。
「……ごめんなさい」
誰に向けた言葉なのか、自分自身でもはっきりとは分からなかった。
助けてくれたセレンに対してなのか。
それとも、立ち上がれなかった情けない自分自身に対してなのか。
ポケットの外では、変わらぬ歩調でセレンが歩いている。
彼が持つ確かな体温が、布越しにじんわりと伝わってくる。
ナナセは頬を伝う涙を拭うこともせず、その温もりにそっと縋るように身体を寄せた。
自分の本当の主人は、もうここだけにいる。
ただそれだけを、心の中で確かめるように。
けれど胸の奥深くでは、あの時動けなかった不甲斐ない自分への悔しさと情けなさが、冷たく静かに残り続けていた。




